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世界へアニメの教えを説く

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かつて、日本は布教される立場であった。
今はこちらが教えを説く番である。

文化の拡散

日本のアニメ文化が中東に広まりつつある。

企業のネットが星を被い、 電子や光が駆け巡っているこの時代、アニメ文化においても日本と世界のタイムラグは無くなってきている。その早さは正規ルートの準備が追いつかず、海賊版しか選択肢が無いという状況だ。日本の制作側に金が入らない状況は問題であり、修正すべきことではあるが、それでもアニメ文化が受け入れられているということ自体は望ましいことだ。

グローバル化と言われ始めて久しい現代においては、人種や居住地よりも文化を共有していることが重要である。文化の共有とは言うなれば価値観の共有であり、価値を共有するということは分かり合えるということなのだから。そして、その文化の発信源には権威が付与される。権威は権力とは違う。人を従わせる力でありながら、そこに強制はない。武力を使うことを嫌い、経済力も落ちつつある日本にとって、権威の獲得こそが生き延びる道である。そのためには日本の文化を世界に拡めなくていはいけないのだ。

異なる文化背景への対処

しかしながら、文化を世界に拡める上で壁がある。異なる文化背景だ。

日本のマンガ・アニメは世界で人気だ、クールジャパンだ、と言ってもある一定以上に広まらないのは、国によって文化背景が異なるためだ。日本では誰も気にしないようなことでも、文化背景が異なれば時には違和感を生じさせ、時には禁忌ともなり得る。上記記事では、二頭身演出、露出度の高いファッション、恋愛シーンなどが例として挙げられている。

問題となるのが特定のシーンや演出ならばまだいい。大筋はそのままに細部だけローカライズすればいいのだから。しかし、これが物語の展開そのものが問題であったらどうなるか。展開を変更してしまったら、それは全くの別物と言っていい。この場合別の手段が求められる。それは教育、である。変えるのは物語ではない、受け手の意識のほうだ。

アナロジーで教えを説く

教育と言ってもどのようにすればいいか。まずは、なぜそれが受け入れられないを突き止めるところから、である。その物語が禁忌に触れるから、であれば諦めた方が利口だ。マイナスの状況を無理にひっくり返そうとするのはコストがかかるし、リスクもある。一方で単純に理解ができない、というのであれば問題ない。相手がすでに理解しているものと対比させ、解説してやればよい。アナロジーを使うのだ。

幸いにも、物語の構造には世界的な共通点を見つけることができる。「行きて帰りし物語」はその典型例だろう。世界各地に伝わる英雄神話には「出立→イニシエーション→帰還」という一貫した共通パターンがある。テンプレートと言ってもいい。そしてそれは昔だけでなく、現代においても『スター・ウォーズ』のように通用するものなのだ。

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

千の顔をもつ英雄〔新訳版〕下 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

したがって、異なる文化背景を持った相手に物語を解説しようと思うのならば、相手の知っている物語と対比して行くのが近道である。一見ユニークに思える展開も、解きほぐしてやれば共通点は見つけ出せるはずだ。

世界の半分を悟らせる

そんな解説すべき、つまり理解し難い展開の一つに、ラノベ原作アニメにありがちなテンプレ展開、もとい石鹸枠というものがある。
石鹸枠とは (セッケンワクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
近年急速に発達したジャンルであり、海外のみならず、我が国においても正しく理解されづらい物語である。そのため俺は以前これの解説記事を書いた。

幸いなことに多くの人々に読んでいただいたこの記事であるが、この度MANGA.TOKYOで英訳された。

この記事は石鹸枠を旧約聖書を用いて解説している。現在、世界の宗教人口を見てみると、キリスト教徒とイスラム教徒で世界人口の約55%を占めている*1。よって世界の過半数の人が今回によって石鹸枠を理解できるというわけだ。これによって世界で日本文化がより理解されるようになるのなら、望外の喜びである。

石鹸枠解説記事


不運な少女は現実を受け入れる

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この記事を書いた理由はただ一つ。
あなた方には全員幸せになってもらいます。

春アニメの後半で

気がつけば2016年春アニメも後半を迎えている。そんな現在、俺の中で評価が上がっている作品が一つ。それは『あんハピ』である。

当初は数ある新アニメの一つ、としか見ていなかった。しかし回を重ねるごとに、その認識は変わっていく。そして今はこう言う。このアニメは日常系の先を行くものである、と。

知らない人のために簡単にこの作品について説明しておこう。公式サイトにはこのように書かれている。

不憫な少女たちが今日も元気に繰り広げる励まし系学園コメディ。
〝負の業〟すなわち不幸を背負った生徒たちが集められたクラス、天之御船学園1年7組に入学した、不運の花小泉杏(はなこ)、悲恋の雲雀丘瑠璃(ヒバリ)、不健康の久米川牡丹(ぼたん)、方向オンチの萩生響(ヒビキ)、女難の江古田蓮(レン)。
「しあわせ」になるべく高校生活を送ることになるが――
イントロダクション | TVアニメ「あんハピ♪」公式サイト

不幸な性質を持つという共通点で集められた少女たちが、幸福実技の名の下に出される課題に挑んでいく、というのが大まかなストーリーだ。

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主人公達は幸福になることを求められる / 『あんハピ』1話より

原作は『まんがタイムきららフォワード』にて連載されているマンガである。

日常系アニメの仕組み

『あんハピ』の解説に入る前に、先行作品について書いておく。あるものが他よりも進んでいると主張したいのであれば、まずは既存のものがどのようになっているかを明確にしておく必要がある。『あんハピ』の場合、その対象となるのは、いわゆる日常系アニメであることに異論は無いだろう。それも「難民」が出るような作品だ。

大百科での解説に乗っかるのであれば、作品例として『ゆゆ式』『きんいろモザイク』が挙げられる。

これら日常系とはどのような作品であったか。それは、再発見の物語である。日常という取るに足らないシチュエーションの中に価値を見出し、評価する。それが日常系だ。その昔、物語を成り立たせるためには非日常的な要素が必須であると思われていた。だが本当に必要であったのは新たな出来事ではなく、新たな視点であった。価値あるものは最初から日々の生活の中にあり、それを見つけ出すだけで良かったのである。

かつて、ユリウス・カエサルは言った。「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」と。これは一般的に、現実から目を背ける人に対して使われることが多い。しかしその逆にも言える。価値のあるものについても、見たいと欲しなければ見えてこないのだと。だからこそ日常系の作品には往々にして余所者、つまり外部からやって来たキャラが存在する。これは彼女らが「見たいと欲している」からに他ならないのである。

幸せはどこにあるのか

日常系アニメとは再発見の物語であると説明した。価値とは見つけ出すものである、と。この考えは更に先へと進めることができる。それは、我々は主観的な世界に住んでおり、自らが意味づけをほどこしているのだ、と。そしてこの考えは俺の発想ではない。彼のだ。

彼の名はアルフレッド・アドラー。オーストリア出身の精神科医であり、アドラー心理学の創始者である。『あんハピ』の真髄はアドラー心理学によって見えてくるのだ。幸せになるカギはここにある。

意味を与える

『あんハピ』の主人公、花小泉 杏(ハナコ)は不運な少女である。階段を降りれば転げ落ち、猫に出会えば襲われ、水辺に近づけば溺れる。調査報告書には「この世の全てにおいて運がない。」と書かれているほどだ。

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『あんハピ』1話より

このようなハナコは不幸であると言えるのか。振りかかる災難の数々を見ていればそう思えるだろうし、そもそもハナコは「不幸を背負った生徒」として集められている。だが彼女自身はいつも楽しそうだ。その笑顔だけを見ていたら、彼女が不幸な人間であるとは思えない。7話において、ハナコはどんな時に喜んでいるか、と振り返るシーンがあった。その答えは、いつも。理不尽な事態になろうとも、ハナコはそこに何かしらの喜びを見出す。例え傷だらけになったとしてもだ。

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『あんハピ』7話より

そんなハナコのことは、不運であるとは言えても、不幸であるとは言えない。ではハナコは現実から目を逸らしているのだろうか。これも答えは否。彼女はただ現実を受け入れ、そこに良い意味を見出しているだけである。これはアドラー心理学の見地からすると、まさしく幸せになれる道を歩んでいる。なぜなら注目すべきは「何があったか」ではなく、「どう解釈したか」であるからだ。

アドラー心理学の特徴の一つである認知論。この考えでは、客観事実そのものは重要ではなく、個人にとっても意味は無い。それよりも客観事実に対する個人の主観的認知、つまり、事実に対してどのような意味を与えるのかが重要となる。同じ出来事であっても受け取る人によってその価値が異なるのは、その出来事にほどこす意味付けが異なるためだ。逆に言えば、良い意味付けをほどこせば、その出来事は良い出来事であると言える。

これの良い例が4話だ。この回において、彼女らはハナコに罰ゲームとして課せられた宿題である「幸福の花」を求めて街中を探し続けた。しかし時間切れとなり、ハナコは宿題の達成を諦める。さて、朝早くから頑張っていたハナコにとって、この一日は無駄な一日だったのだろうか。宿題の達成、という目的のみに焦点を当てたのなら無駄であり、まさしく不幸な一日と言えるだろう。 門の向こうには憂ひの都しかない。しかしハナコはこう言った。

「一緒に遊べたから楽しい一日だったよ」

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『あんハピ』4話より

この時、暁の門は凱旋門となった。彼女は今日という日に「宿題の達成」ではなく、「一緒に遊べた」という意味を与えることで、幸せな一日としたのだ。また、この流れからもう一つ重要なことがわかる。それはハナコがエネルゲイア的な人生を送っているということである。

今を生きる

エネルゲイアという、エネルギーの語源となったこのギリシア語は、アリストテレスによって作られた。その意味は可能性が実現しているということ。言い方を変えれば、現在進行と完了が同時に成立する行為である。例えば「見る」という行為は「見ている」と同時に「見てしまっている」のでエネルゲイアであると言える*1

では、エネルゲイア的な人生とは何か。それには古代ローマの詩人、ホラティウスの詩から答えよう。《Carpe diem / 今を生きる》である。過去に囚われるのでもなければ、未来という結果を求めるのでもない。今というこの瞬間を真剣に生きる。これがエネルゲイア的な人生である。

Carpe Diem.jpg
By Tangopaso - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8015951

誤解の無いように言っておくが、エネルゲイア的な人生とは刹那的な快楽に身を任せ、目の前の課題から逃げまわるような人生のことではない。現実から目を背けるような事はせず、ただ今やるべきことに集中して取り組む。その行いは未来への準備としてではなく、今行った結果として未来がある。これがエネルゲイア的な人生である。

こうして今を生きているからこそ、ハナコは失敗しても後悔することがない。そしてやる気を失うこともなく前へと進み続け、最後にはたどり着く事ができるのである。

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『あんハピ』4話より

冷徹な大人

ハナコはアドラー心理学の指針に沿って生きているからこそ、不運であっても不幸ではないと述べた。このように生き、後は居場所となる共同体さえあれば悩むことはもうないだろう。しかし、ここまで読んでもなお、腑に落ちない人もいるのではないかと思う。世界に対する意識を変えたところで、問題は何も解決しないのではないか、と。

その疑問は正しい。悩みというものはアドラーが言うように、すべて対人関係に還元できる。だから意識を変えることで解決も可能だ。だが問題は違う。問題というものはそれ単体で成立している。これは意識の問題ではない。ではどうすれば問題を解決できるのか。今度は『あんハピ』に登場する大人を見れば分かる。

6話において、開運オリエンテーリングで山に登ったハナコ達にかつてない危機が訪れた。クマとの遭遇である。

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『あんハピ』6話より

この時のハナコたちを説明するのなら、パニック、の一言に尽きる。その結果、彼女たちの取った行動はまさに悪手。手持ちのビンをひたすら投げつけ、興奮したクマは彼女らに襲いかかった。だからと言ってこの状況では現実を受け入れろ、というのは潔く死ねと言うのと同じ。もはや解釈でどうにかなるというものではない。しかし、このあと彼女らは無事に助かった。それはなぜか。

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『あんハピ』6話より

先生が銃を所持していたから、5人は生きているのである。

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『あんハピ』6話より

先生が銃を所持していたのは偶然ではない。無線で情報を収集し、クマが脱走したと知ってその備えに用意したのだ。『あんハピ』という作品は主人公らの性質や学園を始め、設定こそ突拍子もないが、こと問題への対処となると非情なまでに現実的である。階段から落ちるならクッションで防ぎ、川に落ちるなら替えの服を用意しておく。それが答えなのだ。

問題というものは冷徹に現実を見据え、適切な手を打つ事によってのみ解決できる。問題が理不尽であり、それが自分に降りかかったのは不運なだけ、ということはありえる。しかし、その解決には運ではなく、現実を持って対処しなくてはならない。扉を開けたら青い鳥が逃げるというのであれば、風切羽を切り落とすべきなのだ。

終わりに

以上のように『あんハピ』という作品は、悩みと問題の両方についての対処を教えてくれる。だからと言って、見たその日から幸せになれる、というわけではない。人が変わるには時間がかかる。願いを持って、一歩前に踏み出し続けることが大事なのである。それが幸福に至る道なのだ。

さて、毎度のことながらこのような記事を書くと、そこまで深い意味は無いとか、お前の妄想だと言う奴が出てくる。それは違う。世界に客観的な事実はあるが、一般的な意味は無い。物語も同様。あるのは描かれていることだけであり、そこに意味は無い。意味は俺が与えるのだ。俺の主観的な世界においては。

あんハピ♪ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

あんハピ♪ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

アニメから学ぶ記事

小学生に学ぶ、危機を回避する振る舞い方

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人の抱える問題の多くが人間関係にある、というのは有名な話である。だが最適な選択肢を選び取ることができれば、その問題は小さな芽のうちに取り除くことも可能である。

その方法を学ぶべき時が来た。小学生から。

最善を尽くせ

アニメを見ていて不満に思うことがある。それはキャラが物語の都合で明らかな悪手を打つ時だ。これは敵も味方も関係ない。主人公側ならばピンチな状況を作り出すため、敵側ならば主人公が勝つために、といった感じで。それまで賢いように振舞っていたのにもかかわらず、急に知能が低下し、感情的な行動を取る。これを見ると俺は萎えるのだ。

もちろん、普段偉そうにいろいろ書いている俺だって悪手を打つことはままある。後から考えれば、なぜあんなことをやったのか、と言いたくなるようなことさえも。だから実際に他の人が失敗したとしても、それについて必要以上に責めることはない。人は失敗する生き物なのだから。大切なのはそこから何かを学ぶことである。

しかし、アニメと現実は違う。物語内でのミスとは、作者の手によって意図的に創りだされたものである。キャラがそのミスを犯すためにお膳立てしてあるならともかくとして、唐突に失敗するというのであれば、それは作者の力量不足と言わざるを得ない。なぜならそれを認めると、主人公が勝ったのは実力ではなく、運命によるものとなってしまうからだ。主人公がピンチになるにしろ勝つにしろ、それは双方が最善を尽くした結果であってほしい。

冷徹な12歳

物語の都合で悪手を打つキャラがいる一方で、常に冷静沈着で最善を尽くすキャラも存在する。今季も様々なアニメがやっているが、その中から一人例を挙げるならば、俺は彼がふさわしいと断言する。

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』5話より

高尾 優斗(12)である。

彼はどんな状況下であろうともクールさを失わず、適切な言動で問題を瞬時に解決する。彼に見習うべき点は多いので、この記事ではその一部を説明したいと思う。

今さら言うまでもないが、小学生にとってのクラスという環境は過酷なものであり、それは時として多数の都市国家や諸侯国、教皇領に分裂していたルネサンス期のイタリアに例えられる*1。その中で児童達は一人の君主として、時には争い、時には同盟を組み、日々を生き抜いているのである。

そのような6の2の中で、高尾は抜きん出た存在である。成績優秀でスポーツ万能、容姿端麗な上に慈悲深い。当然、女子からの高い支持を受けている。そんな高尾と1話にしてカレカノ契約を結んだのが『12歳。』の主人公、綾瀬 花日である。その関係は高尾の宣言によってクラスに知れ渡り、周知の事実となったのであった。

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』1話より

男子小学生において、彼女持ち、というのはマイナスに働くことが多い。これは教会が力を振るう中で異教徒と親密な関係を築くようなものであり、迫害を受けることさえも覚悟する必要がある。しかし高尾は一時的にからかわれることはあっても、それ以上の仕打ちを受けることは無かった。それは運動ができるからである。

小学校における運動能力とは、国にとっての軍事力のように扱われる。運動能力が高ければそれだけで周囲から一目置かれ、戦いを挑もうとは思われなくなる。つまり、高尾のスポーツ万能という特質は抑止力として働き、周囲を押さえ込んでいるのだ。マキャベリは、君主が覇を競うには「法」と「力」の二つによるものがあると言っている。高尾は「性格」と「運動能力」の二つでその地位を確立しているのだ。

したがって花日と高尾の関係は安泰かと思われた。これが他の者ならば、片方の軽率な言動から危機が訪れるだろう。しかし子供っぽい花日はともかくとして、もう一方はタイムリープの疑いすらある高尾である。分別ある君主というものは、ただ現在の厄介事だけでなく、将来の厄介事も考慮するものだ。常に小さな芽のうちに対処するので問題ない。

だが、二人の関係を引き裂こうとする者がいた。

高尾を自分のものにしようとする少女、浜名 心愛(ココア)である。

6の2のボス

ココアは6の2のボスである。

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』1話より

その美貌で男子の人気を集め、高い政治力によって女子を統率している。その支配力は6の2において教師よりも高いと言っていい。常に情報を収集し、敵対する者がいれば陰謀を企て排除する。それがココアという人物だ。しかし、彼女の真に恐るべきはその持続する意志にある。

花日に出し抜かれ、高尾を取られたココアは、決して諦めること無く二人を別れさせようと画策する。花日に落ち度がある度にそれをあげつらい、タカオと別れるべし、と演説する彼女は現代に現れた大カトーと言えるだろう*2

Marco Porcio Caton Major.jpg
By Unknown - scan from 19th century book, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3785590

だがココアの不断の努力にもかかわらず、花日と高尾の関係は壊れることは無かった。その都度、高尾がはっきりと自分の立場を表明したからである。花日を庇うために行われるそれは、時としてココアに恥をかかせるものであり、下手をすれば優しいという評判を落とすものであった。それでも行った高尾の判断は正しいと言える。

マキャベリは、悪評を可能な限り避けるべきだが、それよりも自分の国を失わないことを最優先にしろ、と言っている。高尾の場合も、最優先にすべきは花日との関係であり、そのための悪評ならば甘んじて受けるべきなのだ。

このような鉄壁の関係の前にどうしようもないココアさん、そんな評価が下されようとしているその時、事態は新たな局面を迎えた。首都から帝王が帰還したのである。

帝王の帰還

東京からの転校生、堤 歩は花日の幼なじみである。園児の頃、彼はその実力に支えられた傲慢な態度から、帝王と呼ばれていたのであった。

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』1話より

6年生になっても帝王の振る舞いそのままである堤は、以前と同様に花日をからかう。しかし、年月は人を変える。現在の花日は、ココアを出し抜き、高尾とカレカノ契約を締結したほどの女である。その天然とも言える男たらしっぷりにより、堤は花日に惚れてしまう。

もちろん高尾はそれを放置するわけにいかない。そしてこの状況を利用しようとするココア。四人の思惑が交差する中、マラソン大会が行われる。

マラソンの戦い

小学校では児童たちに不断の緊張状態を強いるため、絶え間なく何かの行事が行われている*3。マラソン大会もその一つであり、児童たちは体力の限界を問われ、その能力差が白日の下に晒されるイベントである。また、このイベントは小学校行事の中でも教師の目が届かない部分が多く、陰謀を仕掛けるには最適なのであった。

そのようなマラソン大会が高尾と堤の対決の舞台となる。花日を賭けて競争しようというのだ。この勝負について高尾は受ける必要が無い、と思う人もいるだろう。すでに高尾と花日は両者の合意の上でカレカノ契約を締結している。花日の意思を無視した戦いであるし、高尾にとってやる理由が無いではないか、と。

それがあるのだ。すでに書いたように、小学校における力とは運動能力のことである。高尾が戦いを避けるということは、自身の運動能力に自信が無いということであり、堤に敵わないということを示すことになる。それでは高尾の地位も当然ながら、花日を守ることもできなくなる。抑止力というものは、疑われてはその効果は無い。ここは力を行使することによってその存在を示す時である。そして、堤を徹底的に叩きのめし、二度と反抗できないようにすべきなのだ。

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』6話より

このチャンスを逃すココアではない。ココアは高尾の足止めをし、堤を勝たせることを企む。当然、花日が堤のものになれば、高尾を自分のものにできるだろう、と。

そしてマラソンの戦いが始まった。コース上に潜んだココアは腹痛を偽り、高尾に対して一緒にいて欲しいと頼み込んだのである。本来であれば高尾はこれを無視してレースを続けるべきであった。先に書いたように優先すべきは花日との関係を維持することである。そのためにはレースに勝たなくてはならない。

しかし、高尾は人徳の高さで地位を築いた人物である。女子からの支持を維持するならば、ここで見捨てるのはリスクがある。それに苦しんでいる人が一緒にいてほしいと言うのであれば、いてやるべきではないだろうか。その結果、ココアは高尾に取り憑くことに成功したのであった。

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』6話より

この後、異変を察知した花日が現場へと駆けつけ、ココアの仮病は高尾にもバレることになる。しかし、それで怯むようなココアではない。高尾が花日よりもココアを優先した、という事実を突きつけ、二人の仲を裂きに来たのである。

このような落ち度となる行為を突きつけられた時、対処の仕方は三つある。一つ目はそのような行為を取ったことそのものを否定するというもの。当然これは下の下である。二つ目は自らの非を認め、別の行為で名誉を挽回するというもの。これは正しくはあるが、そのためにはより大きなリソースが必要であるし、挽回のチャンスを与えられるとも限らない。そして高尾が取ったのは三つ目であった。行為の意味を書き換えるのである。

「綾瀬ならそうすると思ったから きっと誰が倒れていても助けるから」

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『12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~』6話より

花日を持ち上げることによって反論を防ぐと同時に、ココアを特別視していないことを表明する。行為の正当化として、完璧な解である。こうして彼は破局の危機を回避したのだ。このような対処を人によっては、屁理屈だ、と心よく思わないかもしれない。しかしこのようなスキルは古代からリーダーにとって必須のものである。マキャベリも座右の書としたという『フロンティヌス戦術書』では、不吉な予兆への対処だけで一章を割いているほどだ。中にはこのようなエピソードが紹介されている。

ガイウス・カエサルは、軍船に乗り込もうとするときに、足を滑らせて地面に手をついてしまった。彼は大声でよばわった。「母なる地よ、わたしはおまえを早く掴むぞ」。これを聞いて兵隊たちは、わが軍の大将が、遠征先から必ず生きてローマへ凱旋するように運命づけられているのだと思った。
[新訳]フロンティヌス戦術書 古代西洋の兵学を集成したローマ人の覇道

人を繋ぎ止めるためには、後の行動よりも、その場での発言のほうが時には効果的なのであるのだ。

終わりに

このように『12歳。』は大人が見ても学ぶべき点の多い作品である。今回、この記事では長々とストーリーを書いたが、これはほとんど1話分程度しかない。この作品は非常に密度が高く、展開も早いと言える。何しろもう一組のメインペアについては今回全く言及していないほどなのだから。なのでこれで興味を持った人は今からでも見ることを薦める。

それにしても、女子は子供の頃からこのような作品を読んでいる、というのは恐ろしい事実である。実質これは戦術書と言っていい。あのアレクサンドロス三世も『イリアス』を戦術書として読み込んでいたというのだから、フィクションであるかどうかは関係ないだろう。帰りの会で女子が強かったのも納得がいく。

小学生を支配したいなら

あなたが大人ならこれを読むといい。

君主論〈新訳〉 (中公文庫BIBLIO)

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きみが小学生ならこれを読もう。

よいこの君主論 (ちくま文庫)

よいこの君主論 (ちくま文庫)

合理的なヒロインについて英訳されたことで実感した3つのこと

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なぜラノベ原作ヒロインは3分以内に脱ぐのか” に引き続き “合理的なヒロインは「ちょろく」なる” も英訳された。

二度目の英訳

MANGA.TOKYOでの英訳は二度目である。正確に言えば、2記事セットの契約であるので、二記事目と言うべきか。今回英訳されたのは、冒頭に書いたようにテンプレもとい石鹸枠の原理を経済学で解説したこの記事である。

英訳された記事はどちらとも石鹸枠ネタということで、英語圏から見たら俺は完全に石鹸枠オジサンとなってしまった。もしかしたら日本人でもそう認識している人がいるかもしれないが、そんなことはない。このブログにおける石鹸枠率は1.25%なのだから。ちなみにアクセス数で見ると現時点で43.53%となる。

さて、英訳されることの意義は以前に書いている。

なので今回は、英訳されたことで実感したこと3つ、について書くことにした。ブロガーに限らず、ネット上で何かしらの活動をしている人には参考になるだろう。特にこれからの人にとっては。

持続する意志

何だかんだ言っても、持続する意志の大切さ、これに尽きる。たかだか記事の英訳とはいえ、今の俺にとっては成果と言っていい。この成果を得られたのもブログを3年書き続けたからに他ならない。それも、マンガ・アニメと本を繋ぐ、をメインテーマとして。

ブログで何かを成し遂げた、というような記事を読むと、必ずと言っていいほど続けることの大切さが語られる。最近見たのだとこれとか。

こういうのを読むと、つい「それ何度も言われていることだから」と鼻で笑いたくなるが、いざ自分も書くとなると同じなのだから困る。これが人間世界の現実というものなのだろうか。

大事なのはいいとして、なぜ俺がこのブログを持続できたのか、と考えてみると、単純に書きたいものを書いているから、というごく普通の結論となるだろう。実際、特に書きたいことが無かった時期は数ヶ月にわたって更新していなかったのだから。逆に言えば書いていない時期が続こうとも、書きたいと思った時に書く、というのが続けるコツというわけである。

画像はCCライセンス

英訳された記事を見ると、俺の記事にあったアニメのキャプチャが無くなっていることに気がつく。これは単純に著作権の関係だ。俺の記事でアニメのキャプチャを使う時は、文章が主で画像が従の関係であるし、引用元を記しているので、著作権的に問題は無い(はず)である*1。それでもMANGA.TOKYOで使わなかったのは会社が運営しているため、余計な手間やリスクは無くしたかったからだろう。

一方でそのまま使われている画像もある。それは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの画像である。

CCライセンスとはインターネット時代のための新しい著作権ルールで、作品を公開する作者が「この条件を守れば私の作品を自由に使って構いません。」という意思表示をするためのツールです。
CCライセンスを利用することで、作者は著作権を保持したまま作品を自由に流通させることができ、受け手はライセンス条件の範囲内で再配布やリミックスなどをすることができます。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスとは | クリエイティブ・コモンズ・ジャパン

CCライセンスの種類は「表示*2」「非営利*3」「改変禁止*4」「継承*5」の4つであるため、俺の記事での使い方ならばどれも問題なく、MANGA.TOKYOもそのまま使えたわけである。ちなみにここで言うところの「非営利」とは無料で公開すれば当てはまることなので、広告については問題ない*6

「非営利」とは、商業的な利得や金銭的報酬を、主たる目的とせず、それらに主に向けられてもいないことを意味します。本パブリック・ライセンスにおいては、デジタル・ファイル共有または類似した手段による、ライセンス対象物と、著作権およびそれに類する権利の対象となるその他のマテリアルとの交換は、その交換に関連して金銭的報酬の支払いがない場合は、非営利に該当します。
クリエイティブ・コモンズ (Creative Commons) — 表示-非営利 4.0 国際 — CC BY 4.0

以前、ガジェット通信に記事を寄稿した時*7は、画像にamazonアソシエイトを使っていたため、全て消されてしまっていた。アレはどうにかならないものか、と思っていたのだが、それに対する答えがこのCCライセンスを使うということである。俺は基本的にWikipediaとFlickrから持ってきている。Wikipediaは歴史系の画像に強くて便利であるし、Flickrははてなブログが用意してくれている*8のがいい。

報酬と交渉

最後は少々下世話な話になるが、報酬の話である。今回俺は英訳されるにあたって原稿料を頂いている。この原稿料についての金額なのだが、交渉した結果、最初に提示された額の5倍になった。ネットを見ていると素人のイラストレーターなどで、相場を大きく下回る金額で仕事を受け持った話を度々見るが、不服と思ったらとりあえず交渉するべきである。

なお、MANGA.TOKYOはちゃんと交渉に応じてくれた上、記事を公開する前に確認させてくれるという、良心的なとこであったと書いておく。

終わりに

ともあれ、ブログは続けるべきであると考える次第である。

まんがで身につく 続ける技術

まんがで身につく 続ける技術

石鹸枠以外のアニメ記事

*1:無論、権利者からの申し立てがあれば即消しなのは間違いない。

*2:作品のクレジットを表示すること

*3:営利目的での利用をしないこと

*4:元の作品を改変しないこと

*5:元の作品と同じ組み合わせのCCライセンスで公開すること

*6:参考:[雑メモ] CCLの「非営利」について | anobota

*7:本は電子書籍が出る前から息してない(本しゃぶり) | ガジェット通信

*8:Flickrからの画像の検索と貼り付けに対応しました - はてなブログ開発ブログ

俺のKindleからプロレスラーを追い出したい

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いつかプロレスラーとは戦う日が来ると思っていた。
それは今日であった。

これはその戦いの記録である。


はてなブックマークで気になったニュースがある。

プロレスラーをまとめ買いをすると、135円で226ポイント貰えるという。

俺の計算が正しければ、この取引は間違いなくプラスである。俺は迷うこと無く「1-Clickで今すぐ買う」を押した。

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プロレスラー達が俺のKindleにやって来た。

表紙を見て満足しPCに目を戻すと、ブラウザには「このご購入で226ポイントを獲得されました。」と表示されている。安心したところでトップに俺は戻った。

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“20”とは何を示しているのか。

嫌な予感がし、マイポイントのページへ行く。

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5×4=20

俺は決意した。我がKindleからプロレスラー達を追放せねばならぬ、と。

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Kindle本をキャンセルする一番いい方法は、購入直後に表示される画面で行うことだ。しかし、今回俺はその画面をすでに閉じてしまっている。この場合、カスタマーサービスで対応してもらうことになる。

Amazon.co.jp - カスタマーサービスに連絡

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Kindle本をキャンセルしたい場合は、「デジタルサービス」をまず選択。そして「Kindle本について」を選び、「Kindle本の返品」を選択する。今回俺は、チャットで問い合わせることにした。

結果、こちらの要望どおりキャンセルということになった。どうやら現在、一部の「まとめ買いコンテンツ」と「女性向けコミックストアのコンテンツ」で、サイト上のポイント表示と実際に付与されるポイントが異なるという事態が起きているらしい。プロレスラー達はその一つであったというわけだ。

そして担当者の手によってプロレスラー達が消されていった。俺の目の前で次々とKindleから追放されていく。さらばプロレスラー達よ。またいつか会うその時まで。

他人を生け贄に捧げる。あなたは本の内容をモノにする。

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読んだ本の内容を自分のモノにしたい、そう思ったことはないだろうか。せっかく時間をかけて読書したのに、何も残らないようではもったいない。

そこで俺がそのソリューションを提供しよう。他人を生け贄に捧げればいいのだ。

被害者の嘆き

しばらく前、ネットの時間感覚的に言えば結構前に読んだこのまとめが頭に残っている。

このまとめは最初のツイートが全てである。

この人に対しては、ご愁傷様としか言えない。隣に座ったのが意識高い人で災難でしたね、と。

しかし、この「意識高いサラリーマン」の立場から見てみると、この行動は理に適っていると言える。誤解を恐れずに言えば、本の内容をモノにするには、他人を生け贄に捧げるのが手っ取り早いからである。その対象として偶然隣に座った相手を選んだのは、合理的と言わざるを得ない。

分割して咀嚼せよ

本の内容をモノにするにはどうすればいいか。それは本に書かれている事柄について、逐一細かく検討していくことである。つまり、徹底的に精読せよ、ということだ。ちょうど俺と似たような考えの記事を見かけたので、そこから引用しよう。

たとえば、地名が出てきたら地図を開き、人名が出てきたら人名事典を開き、知らない道具や植物が出てきたら図鑑や百科事典にあたり、言い回しや用語の意味をひとつずつ調べて本の余白に書き込み、表現の意味を調べ、総じて文体すなわち文章の特徴をつかまえ、書かれていることの思想の中核を把握し、さらには時代背景まで調べる。
大人の勉強は“読む”から始めよ──多読ではなく精読こそが自分を変える|ブックス(本・書評)|GQ JAPAN

このような精読のメリットは、曖昧さの排除と知識の関連付けを行える点にある。

まず人が物事を理解していない時、そこには曖昧さが含まれている。なんとなくは分かってるが、いざ説明せよ、と言われるとできない。これが積み重なっていては、その物事を理解しているとは言いがたい。個々のことが分からずに、どうして全体が分かるだろうか。

続いて知識の関連付けについて。物事を記憶するには既存の知識との関連付けが有効である、というのは有名な話だ。そこでいかに関連付けるか、となるわけであるが、そのためには対象の情報を多く知っている方が行いやすい。道具なら名前だけでなく形や素材、使い方に歴史など、その周囲を知れば知るほどに関連付けをするためのフックが出てくる。学習で芋づる式が奨励される理由の一つがこれだ。

したがって、内容をモノにしようというのであれば、最初から全体を捉えようとするのではなく、細かく分割した上で取り込むのがいいのだ。そうすれば最後には全体も分かるようになる。これは何も読書に限った話ではない。例えばマキアヴェッリは『政略論 / Discorsi』でこのように書いている。

人間というものは、大局から判断しなければならない大きな問題についてはきわめて誤りを犯しやすく、〔逆に〕個人の問題にひきうつして判断するような場合は、その危険はさほどでもないものだ、と私は信じる。


つまり、当人に事物を概括的にとらえれば誤ちを犯しやすいものだということを納得させて、個々の事物を細かく検討するようにしなければならないということになる。
ディスコルシ ――「ローマ史」論 (ちくま学芸文庫)

読書であろうと政治であろうと、人間は自分が食える大きさにそれを切り分け、よく噛んでから取り入れるべきなのだ。

経験から学ぶ

物事を細かく切り分けてよく噛め、と言ったところで一つ問題がある。それは、人間は自分自身が何を分かっていないのかを分かっていない、ということだ。すでに理解している事について改めて検討しようとは思わない。しかし、人間には自分が「理解していること」と「理解しているつもりなこと」の区別はつかないのだ。この問題を解決する手段が、この記事の主題である「他人を生け贄に捧げる」なのである。

ここで言う「他人を生け贄に捧げる」とは他人に対しての実践、あるいは説明である。ここはまず、俺が言葉を尽くすより『ヒストリエ』の3巻を持ってきたほうがいいだろう。

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他人に物事を教えたことのある人ならば、この感覚に大きくうなずくのではないだろうか。知識を右から左へと流すだけならともかく、簡潔に自分の言葉でまとめようとすると、そこに曖昧さがあっては上手くいかない。説明しようとすることで、自分が何を分かっていなかったのかに気づくのである。

また、最初のツイートのような、何かのノウハウというものは、説明よりも実践するのが一番である。実践して上手く行けばその効果が分かり、逆に失敗したのであれば自分が理解していない*1ことに気がつくことができる。マキアヴェッリも『戦略論』でいろいろと偉そうなことを言っているが、いざ歩兵二千を指揮しようとしても整列すら出来なかったそうである。言うは易く行うは難しは、全くもって真実なのである。そして、「難し」の理由が分かれば、理解したも同然だ。

さらに言えば、説明にしろ実践にしろ、行うならば読んでからすぐのほうが望ましい。なぜなら理解していなくても記憶に新しいし、不明な点があった時にすぐ参照することが出来る。もちろん、読みなおしたのであれば、また即実践したほうがいいのは言うまでもない。

ゆえに、例の意識高いサラリーマンの取った行動は、理に適っていると言える。しかも会話術の本であるので、知らない人に対してやったほうが効果がよく分かる。失敗したところで二度と会うことのない他人なのだから、特にリスクも無い。せいぜいツイートされるぐらいである。しいてミスを挙げれば、何を読んでいるかバレてしまった、ということだろう。

終わりに

というわけで、もしあなたが本の内容をモノにしたいというのであれば、積極的に他人を生け贄に捧げることを推奨する。それも後々に悪影響が出ないよう、見ず知らずの人間が望ましい。これを読んだら早速実践してみよう。

ところで、この記事を含め最近の俺の記事には、唐突にマキアヴェッリが登場する。

Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait.jpg
By Santi di Tito - Cropped and enhanced from a book cover found on Google Images., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=934421

今のあなたにはその理由が分かるだろう。俺がブログを書くのはブログ名の通りなのである。

ディスコルシ ――「ローマ史」論 (ちくま学芸文庫)

ディスコルシ ――「ローマ史」論 (ちくま学芸文庫)

意識が高そうな記事



*1:あるいは書いてあることが間違っている

いなくなったプロレスラー

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寓話 (ぐうわ)
教訓的な内容を、他の事柄にかこつけて表した、たとえ話。例、イソップ物語。
Googleより

はてな村のすみっこに一人のガイコツが住んでいました。

ある日のこと、ガイコツはこんな噂を聞きました。
「密林のプロレスラーをまとめて135円で雇うと、226円もらえる」
これは儲けるチャンスだぞ、と思ったガイコツはさっそく密林へと行きました。


密林につくと、そこの看板にはこう書かれていました。

対象商品 (5冊)を購入
 Kindle 価格: ¥1,404
 まとめ書い価格: ¥ 135
 OFF: ¥ 1,269 (90 %)
Amazon ポイント:226ポイント (167%)

「うわさは本当だったんだ!」
喜んだガイコツは、135円を払ってプロレスラーを雇いました。

ガイコツのところへプロレスラーたちがやって来ました。

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ところがです。
「なんてことだ!」
ガイコツは20円しかもらえませんでした。

ガイコツはプロレスラーなんて欲しくなかったのです。
ただ金が欲しかったのです。
それなのにプロレスラーがやってきて、お金は減ってしまいました。

ガイコツは決意しました。
「プロレスラー達を追放せねばならぬ」


ガイコツは急いで密林に戻りました。
そして大きな声で叫びました。
「プロレスラーはいらないのでお金を返してください!」

すると密林の中から担当者が現われて言いました。
「あなたの願いを叶えます」
「ただし、ひとつ覚えておいてください」
「また同じようなことでここに来たなら、あなたを調査するかもしれません」

ガイコツは金さえ戻ればいいのでうなずきました。
すると、ガイコツのもとからプロレスラーたちが去っていきます。
そしてガイコツにお金が戻りました。
ガイコツは満足したので、そのことを日記に書きました。


それから数日後のことです。
ガイコツのもとに一通の手紙が届きました。

このたびは、ポイントが商品詳細ページ上の表示通りに付与されず、ご迷惑をおかけしましたことをお詫びいたします。

ご購入いただいた対象商品のご購入の際に、獲得済のポイントと商品詳細ページ上に表示されていたポイントの差額分のクーポンをお客様のアカウントに登録させていただきました。

プロレスラーを雇った人たちにお金が配られたのです。
プロレスラーが欲しかった人たちは儲かったのです。

しかし、ガイコツのところにはお金が来ません。
手紙は来てもお金は来なかったのです。
ガイコツはプロレスラーを追い返してしまったからです。

ガイコツのところにはプロレスラーがいません。
お金が欲しかったガイコツは、お金もプロレスラーも失ったのです。

今日もまたガイコツは、密林の看板を眺めています。


そんじゃーね

親指シフトに転向して半年が経ったから報告する

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親指シフトを始めてから半年が経過したのでメモしておく。

今週のお題「2016上半期」ということで振り返ってみると、親指シフトを使い始めた、というのが俺にとって一番の出来事だろう。始めたときは続けられるか若干不安であったが、仕事・プライベートのどちらも親指シフトにしたことで、否が応でも使えるようになった。

そんなわけで、半年間親指シフトを使い続けた感想を、メリット・デメリット別に書いていく。

メリット

まずはメリットについて書く。先に言っておくと、あらゆる物事にはメリット・デメリットがあるように、親指シフトへの転向も両方あった。しかし、今もなお続けていることから分かるように、メリットの方が上回っていると俺は判断している。

1. タッチタイピングができるようになった

いきなり万人向けの話ではないが、俺にとってはまずこれである。

ローマ字入力をしていた時、俺はタッチタイピングができていなかった。何となくはキー配列を知っていても、アルファベットすら怪しく、大抵はキーを見ながら打っていた。そして、そうしているからこそ、タッチタイピングを習得することは出来なかった。

しかし、親指シフトを始めるとそうも言っていられない。何しろキーに書いてある文字と入力される文字が違うのだから。なのでキーボードを見ても混乱するだけであり、画面を見なければ正しく入力出来ているかはわからない。おかげでタッチタイピングが出来るようになった、というわけである。

2. DelとEnterを押すのが楽

キー配列を0から覚え直すのだから、せっかくなのでDel(=BackSpace)の位置も親指シフト仕様にした。つまりEnterの左隣りにしたのである。

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この位置にDelがある、というのは実に便利である。なにしろホームポジションを全く崩すこと無しに押すことが出来るのだから。最初はタッチタイピングに慣れていないこともあって押し間違えの不安があったが、実際に使ってみると杞憂でしかなかった。ミスってもすぐにリカバリできるというのは実にいい。なぜQWERTY配列ではそうなっていないのか疑問に思えるほどだ。

さらに俺は右手のホームポジションを一つ右にずらしたOrzレイアウトを使っているため、Enterの位置も近くなっている。日本語の文章ではEnterの出番が多いため、この近さは非常に楽と言わざるをえない。

そしてOrzレイアウトを使っていると、小指のリーチは大きく動かしやすいことに気がつく。小指は二つ離れた位置を押すことがわけなくできる。一方で人差し指は難しい。Orzレイアウトでは「6,Y,H,N」のキーが左右どちらからでも二つ離れた位置にある*1。これが結構押しにくいのだ。試しにやってみればわかると思うが、他の指を動かさずに打つのは無理である。それを考えると、左小指はその力を存分に発揮できていないわけで、実は左手も一つ右にずらしたほうが便利なのでは、としばしば思う。

3. オリジナルのキー配列

BackSpaceの同様に、記号についても見直すことにした。以前の俺だったら多少不便に感じていても、キー配列を変えようと思わなかっただろう。刻印が意味を成さなくなるし、他人のPCを使うことができなくなる。しかし、親指シフトにするのなら別だ。一番重要な文字の配列が全く異なるのだから。

なのでよく使う記号を、俺にとって打ちやすいところに配置しなおした。参考にしたわけではないが、ここの配置にかなり近い。

現状の配置で概ね満足しているが、そのうち変更することもあるのではないかと思う。一度キー配列を最初から覚え直す経験をすると、記号なら多少変えてもすぐに使えるようになると言えるからだ。この、新しいことを試そう、という気になれるのがある意味で一番良かった点かもしれない。

デメリット

もちろん親指シフトにしたことで発生するデメリットもある。

1. 片手で打てない

ローマ字入力ならば、一度に一つのキーしか基本的には打たないので、キーボードを見ながらならば片手で打つこともできた。しかし、親指シフトは両手で打つことが前提の配列である。およそ1/3は両手でなくては打つことが出来ないのだ。

これが困るのが、電話中のメモである。ローマ字入力をしていた時はメモをPCで行っていた。しかし、親指シフトではそうもいかない。まず打てない文字がある。さらに手でキー配列を覚えているため、キーボードを見ながら片手で打とうとしても、どこにどのキーがあるのかわからないのだ。

今ではすぐに紙とペンを用意するようになったが、最初の頃は癖でPCで行おうとし、こんな顔になっていた。

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2. キーボードによっては打ちにくい

俺が使っているキーボードは親指シフト専用ではなく、通常の配列のものである。具体的にはこの2つだ。

Apple Wireless Keyboard (JIS) MC184J/B

Apple Wireless Keyboard (JIS) MC184J/B

この2つはOrzレイアウトで打ちやすい。ついでに言えばMacBook Proのキーボードも配列が一緒なので、出かけた時でも特に不都合は感じない。

しかし問題なのが、仕事で使っているノートPCだった。狭い幅に多くのキーを押し込めた結果、右親指シフトとして機能させている「変換」が左にずれてしまっているのだ。そのため、ノートのキーボードを使わざるを得ない時のストレスがひどい。 もう少し、PCの機種を自由に選べたらいいのだが。

3. 他人にキーボードを触らせられない

言わずもがな。もちろん、逆の場合も同様。今でもローマ字入力はできるので、俺が他人のキーボードを使うことは可能ではあるのだが、手足に重りを付けられたがごとき焦れったさを感じる。俺が触るのは俺のだけにしたいし、俺のに触るのも俺だけにしたい。

終わりに

というわけで、俺にとっての2016年上半期は、親指シフトを始めたことが大きなイベントであった。最初に貼った親指シフトの記事も「今週のお題」で書き、公式ブログで取り上げられた。

「今年こそは」ということで俺は親指シフトを始め、今でもちゃんと続けている。他の人はどうなのだろうか。大切なのは持続する意志である。

*1:実際には別の文字が入力されるようになっている。


マキアヴェッリの風俗レポ 1509

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500年以上も読み続けられている風俗レポを紹介しよう。
舞台はルネサンス期イタリアのヴェローナ。
著者は『君主論』のニコロ・マキアヴェッリである。

風俗レポこそ最強のコンテンツである

俺がブログで一番参考にしているところの最新記事がこれであった。

これが引き寄せの法則か*1と読んで感心していたのだが、その内容にふさわしいと言うべきか、Twitterでそれなりに拡散されたようである。そして後日、彼はこうツイートしていた。

全くの同意見だ。それどころか俺は常々こう思っている。ネットにおいて、風俗レポこそ最強のコンテンツである、と。もちろんそれよりもPVを集める記事があることは百も承知だ。しかし、それほどの特技もアイデアも持たない一般人が文章で受けるなら、風俗レポほど成功が約束されているジャンルは無い。小飼弾が著書で人気作家になりたければ伝記を書け*2と言っていたが、ネットで人気になりたければ風俗レポを書け、と俺は言わせてもらう。

この説を実感したければTogetterで「風俗レポ」と検索してみればよい。例えばこちらの風俗レポ。

執筆時点で 548,516 viewもある。俺の記事で一番読まれたのは聖書のやつ*3だが、それでも累計で20万に達しない。そこまでのアクセスが無い他のレポについても、とりあえず目を通してみるといい。素人が垂れ流すつぶやきの寄せ集めだというのに、ちゃんとストーリーが出来ている。風俗を語る時、人は物語を紡ぐのだ。

1509年12月8日ヴェローナにて

この後は満を持して俺の風俗レポを書く、というのが普通の流れだろう。しかし残念ながら俺は遺伝子の囁きに耳を貸さないタイプなので、これまでもこれからも行くことはない。なので代わりに彼の風俗レポを紹介する。

Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait.jpg
By Santi di Tito - Cropped and enhanced from a book cover found on Google Images., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=934421

タイトルにも冒頭にも書いたとおり、ニッコロ・マキアヴェッリである。マキアヴェッリというと君主論が有名であり、「人に損害を与えるときは、恐怖のあまり復讐できないような損害でなければならない」などと書くものだから、人の情というものが無い冷酷な人間と誤解されることがある。なにせ『君主論』は禁書目録の第1回から記載され続けたほどなので、仕方ないとも言えよう。

そんなマキアヴェッリであるが、彼は『君主論』や『ディスコルシ』のような政治・軍事だけの人間ではない。例えば喜劇『マンドラゴラ』がその筆頭として挙げられ、生前はむしろこっちの方で有名だった。

だが、ネット向けのコンテンツということならば、やはりここはマキアヴェッリ風俗レポを推したい。とは言ってもこれは書籍ではなく、友人に宛てた手紙である。1509年12月8日ヴェローナから投函されたその手紙は、RTにRTをされ、今ならネットで読む事ができる。イタリア語が分かる人はここの#170を見ればいい。

Niccolò Machiavelli - lettere ante res perditas (a cura di Giuseppe Bonghi)

このブログを読む多くの人はイタリア語が分からないと思うので、『我が友マキアヴェッリ』を引用しつつ紹介しよう。だが先に言っておく。この風俗レポはココアお姉ちゃんが出てくるタイプではない。こっちのタイプだ。

時は1509年、カンブレー同盟戦争でヴェネツィアが列強の全てを敵に回していた頃、マキアヴェッリは公務でヴェローナに来ていた。

そんなある日のこと、シャツを洗ってくれる老婆から「家に寄らないか」と誘われた。「新しいワイシャツを見せるから良かったら買わないか」と。そこでマキアヴェッリはホイホイ付いて行く。

老婆の家に入ると、暗がりに女が一人縮こまっている。老婆は言った。「これがそのワイシャツですよ。後払いでいいから試してみな」そうして自分は外へ出て扉を閉め、暗闇の中にはマキアヴェッリと女の二人が取り残された。

で、つまり、結局のところ一気にやった。太ももは張りがなかったし、性器はじっとりとぬれていて、吐く息は臭かったんだが、なにはともあれ、わたしは絶望的な欲望に駆られていたのだ。あっという間に行ってしまった。
わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

そして満足したマキアヴェッリは女の顔が見たくなり、カンテラに火を入れた。女の顔が暗闇に浮かび上がった。

ぼんやりした色合いかと思っていた前髪は真っ白で、頭のてっぺんときたらはげなのだ。そのはげの場所には、幾匹かのしらみが散歩しているのまで見える。髪の毛がこれほども少ないのに、それでも眉にまでつながっている。小さくてしわだらけのひたいの真中には火の輪があり、まるで、祭りの日に市場の円柱につながれる、烙印つきの動物のようだ。眼に向ってたれている眉の毛には、その一本一本にしらみの卵がくっついている。
眼は、一方が高くついていて、もう一方は低くついている。そのうえ、一つは大きく、他は小さいときている。またそのうえ、まつげの抜け落ちたまぶたの縁は、眼やにであふれんばかりだ。鼻は、しわだらけのひたいと境を接し、鼻の穴の一つは、いっぱいの鼻汁でふさがっている。唇ときては、ロレンツォ・デ・メディチの口そのものだ
わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

Lorenzo de' Medici-ritratto.jpg
By Girolamo Macchietti - 不明, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=734123

ロレンツォ・デ・メディチ参考画像

これだけにはとどまらず、彼女の口にはヒゲが生え、そこから放たれる口臭はペストが逃げ出す臭さであり、マキアヴェッリは思わず吐いてしまったという。

しかし、このような目にあってもポジティブに捉えるのがマキアヴェッリという男である。この風俗レポは次のように〆られる。

きみは、神に感謝すべきだよ。愉しい経験をさらにつみ重ねさせてくれるのだから。そして、わたしも、神に感謝するね。ただ、わたしの感謝は、しようとしたってなかなかできるものでもないほどひどい経験を、させてくれたってことに対してなのだが。
わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

以上がルネサンス期に書かれた風俗レポである。これから風俗レポを書こうと考えているならば、ぜひ参考にしてもらいたい。諸君らに《力量 / Virtu》《幸運 / Fortuna》が備わっていれば素晴らしいレポが書けるだろう。

プロブロガー・マキアヴェッリ

ところで、俺はこのマキアヴェッリによる風俗レポを読んだ時、一つ確信したことがあった。マキアヴェッリはネット時代の今だからこそ、参考にすべき人物である、と。特にブロガーはマキアヴェッリを見習うべきである。なにせ彼の人生は以下の通りだ。

  • 書記官として各地に取材に行ってはレポートを書く
  • そのレポートがフィレンツェ政庁でバズる
  • チェーザレ・ボルジアのイタリア征服を実況
  • 風俗レポ
  • フィレンツェ政庁を辞めて*4フリーランスになる
  • まだフィレンツェで消耗しているの?
  • フランチェスコ・ヴェットーリとのリプライ合戦 (後にトゥギャられる)
  • 単著を出す
  • サロンに入って若者達に講義する

このように書くと、俺が恣意的にマキアヴェッリの人生を取り出しているのでは、と疑う人もいるかもしれない。そんな人がマキアヴェッリについて知ることが出来るように、俺が読んだマキアヴェッリ関連の本を紹介しよう。ぜひ自分の目で確かめてもらいたい。

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

この記事を書く上で一番参考にした本。これを読むとマキアヴェッリが冷酷どころか愉快な人間に見えてくる。なお、読む時は『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』も用意しておくこと。


君主論〈新訳〉 (中公文庫BIBLIO)

君主論〈新訳〉 (中公文庫BIBLIO)

言わずと知れたマキアヴェッリの代表作で問題作。有名な割にコンパクトなので一気に読めるのがよい。この本から一つだけルールを学ぼうというのであれば、人から恨みは買わないようにする、といこと。なので人に対しては好遇するか叩き潰すかどちらかであるべき。


よいこの君主論 (ちくま文庫)

よいこの君主論 (ちくま文庫)

このブログで紹介するのは何度目か分からない。順番としては、まず『君主論』を読み、次にこれを読み、そしてもう一度『君主論』を読むのを薦める。


ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)

ディスコルシ ローマ史論 (ちくま学芸文庫)

これを読む前にロムルスからカエサルまでのローマの歴史を学んでおくこと。そうしないと登場キャラが分からずに挫折する。


最後に一つだけ言って終わりにしよう。

知性の訓練のためには、君主は歴史を読み、傑出した人物の行動を研究しなくてはならない。


マキアヴェッリが出てきた記事

2016年春アニメを供養する

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供養とは死者のために行うものではない。
残された者が過去にケリを付け、未来に目を向けるための儀式である。

心置きなく夏アニメを楽しむために春アニメの供養を行う。

2016年春アニメの終わり

季節が移り変わり、アニメが入れ替わる時期となった。多くの春アニメが終わりを迎え、一部の夏アニメがすでに始まっている。流れるように夏アニメへと移りたいが、少しばかりの心残りがあり、そうもいかない。というのも、春アニメについて言いたいことを出し切っていないからだ。

なので、この記事では俺が春アニメへの未練を断ち切るため、言いたいことを吐き出す。ブログに書こうかと思ったが、単体で記事を書くには至らなかったような話だ。それをこの際、一気にやってしまおうということである。感想まとめ、みたいに思っておけばいい。対象作品は、最終回を迎えた作品で、分割2クールも含める。当然、俺が見ていて言いたいことがあるものに限る。



とんかつDJアゲ太郎

俺はクラブに行ったことは無いし、これから行くつもりも無い。だが、この作品は面白かった。というのも、俺にとってはビジネス書を読む感覚で見ることが出来たからだ。特にこの手のやつ。

アイデアは交差点から生まれる イノベーションを量産する「メディチ・エフェクト」の起こし方

アイデアは交差点から生まれる イノベーションを量産する「メディチ・エフェクト」の起こし方

この『とんかつDJアゲ太郎』は作品の根幹からそうなのだけれど、「トンカツ屋」と「クラブDJ」という一見関係のなさそうな二つの間に共通点を見出し、片方で起きた問題をもう片方の知識・体験で解決していくのが実に面白い。特に俺好みであるのが、アゲ太郎がDJだけではなく、家業のトンカツ屋に対しても前向きになる点だ。どちらか一方を選択するのではなく、両方で成功を掴み取る。見ていて実に気持ちがいい。

もちろんこれをそのまま仕事に使える、とは言わないが、今まで積み上げてきたものを別の分野で活用する、というのは成功への定石であると俺は思っている。俺の体験で言えばこの記事に書いた。

『とんかつDJアゲ太郎』は何かを新しく始めようと考えている人にはぜひ見てもらいたい作品である。

とんかつDJアゲ太郎 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

とんかつDJアゲ太郎 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


ふらいんぐうぃっち -flying witch-

一言で説明するならば、優しい世界。しかしその世界にも終わりが訪れ、二期も当分の間は無いであろうということで、難民化した者も多いだろう。

ところで、この世界では魔女は東北に多くいることになっている。また、一般人には魔女であると知られてはいけない、ともなっている。実はこの二つには関連があり、歴史的な理由があるというのは知っていただろうか。

かつての日本において魔女は公の存在であり、国の統治に深く関わっていた。中でも有名なのが邪馬台国の卑弥呼である。この頃の魔女はその力によって人々をまとめ、導いていた。魔術は秘匿されるようなものではなく、魔女たちはその身に、民衆から敬意と畏怖の念を受けていたのである。

Himiko 014

しかし6世紀に状況が大きく変わる。仏教が伝来したのである。蘇我氏を始めとする仏教勢力にとって魔女は邪魔な存在であった。神祇・神道が持つ弱点であった穢れに対する不可触、すなわち病や死などに対処するための方策として、仏教と魔術は役割が被っていたためである。怪しげな術を使い、人民を惑わす。そう言って仏教勢力は魔女を攻撃した。

そしてついに587年、丁未の役により、諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させたことによって朝廷は仏教に支配される。こうなった以上、魔女たちは朝廷の力が及ばないところへ逃げるしかなかった。そこで蝦夷の勢力圏、すなわち現在の東北地方へと身を寄せたのである。

だがそれで魔女たちの受難は終わらなかった。完全に仏教の支配下に置かれた朝廷は魔女根絶のため、討伐軍を差し向ける。必死の抵抗を続けた魔女たちであったが、801年、征夷大将軍となった坂上田村麻呂によって壊滅的な被害をうける。さらに翌年、蝦夷を率いていたアテルイが降伏したことにより、魔女たちは面と向かって抵抗することを諦め、その存在を秘匿することで生き延びることにしたのであった。

……とまあ、このようなネタを思いつき、記事にしようかと考えていたのだが、上手い落とし所を用意できなかったので書くことは無かった。

ふらいんぐうぃっち(1) (週刊少年マガジンコミックス)

ふらいんぐうぃっち(1) (週刊少年マガジンコミックス)


坂本ですが?

最後の坂本の顔を見てコイツを思い出したのは俺だけでは無いはず。

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向きが逆だけど。

坂本ですが? 1<坂本ですが?> (ビームコミックス(ハルタ))

坂本ですが? 1<坂本ですが?> (ビームコミックス(ハルタ))


12歳。~ちっちゃなムネのトキメキ~

すべてはここに書いた。

ココアさんは最後までどうしようもないココアさんだった。

ちなみに7/4から1期の再放送が行われ、10月からはセカンドシーズンの放送が決定している。追いかけるなら今がチャンス。

12歳。(1) (ちゃおコミックス)

12歳。(1) (ちゃおコミックス)


ハイスクール・フリート

はいふり学を履修していない俺にとって、この作品を考察することはできなかった。

ハイスクール・フリート いんたーばるっ<ハイスクール・フリート いんたーばるっ> (MF文庫J)

ハイスクール・フリート いんたーばるっ<ハイスクール・フリート いんたーばるっ> (MF文庫J)


あんハピ♪

最終回まで見ても『あんハピ』について言いたいことはこの記事でほとんど書いたと言える。

しかし、一つだけ言い残したことがある。それはクマへの対処だ。

不運な少女は現実を受け入れる - 本しゃぶり

6話でクマにビンを投げつけるという愚行が肯定されたまま終わったからムシャクシャして書いた

2016/05/28 19:48

セルクマにも書いたとおり、もともとこの記事はクマへの対処に腹だしさを感じて書き始めたものであった。しかし、書いているうちに、そのことについて書かないほうが記事がまとまることに気がついてしまう。そこで愚行への指摘はバッサリ切り捨てたのだ。だがそのために俺の中のモヤモヤは収まらない。なのでここに書く。

忘れている人も多いだろうから、この時の状況を自分の記事から引用する。

6話において、開運オリエンテーリングで山に登ったハナコ達にかつてない危機が訪れた。クマとの遭遇である。

f:id:honeshabri:20160528174941j:plain
『あんハピ』6話より

この時のハナコたちを説明するのなら、パニック、の一言に尽きる。その結果、彼女たちの取った行動はまさに悪手。手持ちのビンをひたすら投げつけ、興奮したクマは彼女らに襲いかかった。

明らかにこの行動はひどい。特に以下の2点が。

  • 物をぶつけてクマを刺激する
  • しゃがんだままでいる

これではクマに襲ってくれと言っているようなものだ。今回のような20m前後の距離でクマと遭遇し、こちらに気がついている場合、取るべき行動をまとめると以下のようになる*1

  • 落ち着く
  • ゆっくり動く
  • 立ち上がり体を大きく見せる
  • 穏やかに話しかける

とにかく、落ちついてクマを刺激しないことが肝心である。ちなみにこの「話しかける」というのは他の肉食獣に対しても有効な対応なようで、例えばカラハリ砂漠で暮らすサン人はライオンに遭遇した時、話しかけながらゆっくりと歩き、視界から遠ざかるという*2。決して「獲物」のような行動を取ってはならない。

とはいえ、普通の女子高生がクマに会った時、冷静に対処できなくても仕方がないとも言える。だから俺もこれだけならばここまで気にしなかった。本当の問題はその後だ。一段落したことろで、クマにビンをぶつけたから助かったなどと言い始めたのだ。助かったのはあくまでも先生がライフルを持っていたからである。ただでさえ間違った行動だというのにそれを肯定。『あんハピ』は作品として良かったが、これだけは許されない。

あんハピ♪ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

あんハピ♪ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)


鬼斬

OP見たら満足した感ある。

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ハンドレッド

ちゃんと最後まで見た。気にするべきはこれに書いたことがどうなったか、ということだろう。

つまりこの『ハンドレッド』という物語は、敗北の運命に知力を持って抗うエミリアと、運命に選ばれたその他ヒロイン達による戦いを描いているのだ。

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『ハンドレッド』12話より

エミリア大勝利!

ハンドレッド ―ヴァリアント覚醒― (GA文庫)

ハンドレッド ―ヴァリアント覚醒― (GA文庫)


終わりに

他にも最後まで見た作品はなるのだが、力尽きたのでこれで〆る。気が向いたら追記するかもしれないが、今までの経験上まずやらないだろう。

とりあえずこれで春アニメに思い残すことは無いとし、夏アニメの選別に取り掛かりたいと思う。

なぜこの本が☆5なのか / 俺的web本棚運用

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「何かオススメの本ない?」
このような質問をする人にはこう返す。
☆を多くつけたのが面白い本である。

そしてもう一つ。
訊いたからには勧めた本を読めよ、と。

web本棚

今週のお題「わたしの本棚」である。一応読書系ブログとして書きたいのだが、俺の部屋にまともな本棚は無い。本の多くはダンボール箱へ無造作に突っ込まれ、さらに最近はその大半がKindleである。いよいよもって本棚を購入するインセンティブが無く、物理的な本棚について書くことができない。

そこでweb本棚である。俺は2012年からweb本棚サービスであるブクログを利用している。

今の俺にとって「本棚」といった場合、これについて書くのが実態に合っていると言えよう。というわけで、この記事では俺のブクログ運用方法を紹介する。

ブクログとは

今更感はあるが、知らない人のためにブクログの説明から始める。

好きな人の本棚を見てみたいと思った事はありませんか? ブクログでは、ウェブ上に本棚をつくり、感想を読みあったり、新しい本に出会ったりできます。
ブクログとは

先のリンク先に行ってもらうのが一番早いが、ブクログは本を登録していくことで、このように本棚を作ることができる。

f:id:honeshabri:20160710132946j:plainhoneshabriの本棚 (骨しゃぶり) - ブクログ

登録した本には読書状況やコメント、タグなどをつけることで整理することができる。また、他人の本棚のフォローやランキングなどソーシャル要素も当然用意してあり、要するに「はてなブックマーク」の書籍版と思っておけばいい。

類似のサービスに読書メーターメディアマーカーなどもある。どれも基本的には同じだが、それぞれが成り立つ程度にはメリット・デメリットがあるので、好きなのを選べばいい。ちなみに俺がブクログを選択したのは、最初に見つけたから、ただそれだけである。俺の場合、本の登録さえできれば良かったのだ。

俺の使い方

ブクログには様々な機能があるが、俺は読み終えた本を記録することにのみ使っている。読書状況は「読み終わった」のみ。一時期はタグやカテゴリを付けていたが、後に参照をすることが無かったため現在は付けていない。評価は途中から行い始めて継続中。これについては後述する。

わざわざ読み終えた本を記録し、公開する理由は主に3つある。

1. ブログを書く時に参照をしやすくするため
2. 自分にプレッシャーをかけるため
3. 他人に本を薦めるため

一つ目の、後で参照するためというのは、俺がブクログを始めた理由である。
人間の記憶というものは、何かのきっかけがあると思い出しやすくなるものだ。あるネタについて書こうと思った時、これについて何かで読んだことがある、というのはよくある。そんな時に読んだ本の表紙が一覧で並んでいると、それを探すのがグッと楽になる。そこにメモが書いてあればなおさらだ。今はKindleのハイライトした箇所を検索することが多いが、それでも読み終えた本を表紙というイメージで見返せるというのは価値がある。

二つ目のプレッシャーについて。何かを継続したいならば、記録して他人の目に触れさせるのが一番いい。俺は本を多く読みたいと思っている。それ故に公開という手段を選んだ。
よく「読書は数ではない」とか「暇つぶしなのだから無理して読む必要は無い」という意見があるが、俺はそう思わない。読書は数が全てでは無いが、数が多いに越したことはない。以前にも書いたが*1読書の価値と楽しさの一つに物事の関連を見出す、というものがある。これは数をこなさなければ得られない。そして、人間はやりたいと考えていても、つい怠けてしまいがちだ。だからこそ俺は「本を多く読みたい」というやりたいことのために、記録して公開するのである。

最後の他人に薦めるため、というのは一つ目に被るところがある。読み終えた本からお勧めを選ぶ際、頭の中だけで考えるのとリストを見ながら選ぶのでは質が違う。リストがあることで漏れが無くなるという点もさることながら、選択肢を目で見ながら考えられるというのは強い。暗算のようにリストを脳内に保持し続けるというのは、脳に負担をかけ、思考が浅くなるからだ。 そして、この本を他人に薦めるため、というのが本に☆をつける、すなわち評価に関わってくる。

☆の付け方

さて、タイトルにもつけた☆の付け方である。本のような数値化されているのが値段と分量ぐらいな対象を、点数で評価するのは難しい。根拠のほとんどが主観であるのに加え、「面白さ」や「役に立つか」など、本のジャンルによって指標が異なるからだ。そこで俺は「何かオススメの本ない?」 への回答として☆をつけることにした。つまり以下のように。

  • ☆1:読むべきではない
  • ☆2:読んでもいいけど
  • ☆3:読んでも無駄ではない
  • ☆4:読むといい
  • ☆5:読むべき

☆5ともなれば、俺に訊いた以上は即購入してもらいたい。一方で☆1の本は現在登録されていない。なぜなら俺がブクログに登録する本は全て読み終えた本であり、☆1レベルの本は途中で切るからである。

この方法がいいのは、指針が一つだからである。様々なことを考慮しようとすると、本当にその点数がふさわしいのか迷ってしまう。しかし、どの程度お勧めか、と考えればはっきりしてくる。本として良いか悪いかではない。相手が金と時間を消費する価値はあるかどうかで決めるのである。本の価値は主観でしか判断出来ないのだから、最初から主観で判断することをゴールに設定するのだ。

この方法の欠点を挙げるとしたら、勧める相手によって評価が変わってしまう、ということだろう。そこで俺は二つの策を用いてこの問題を解決することにした。まず一つはレビューの活用である。例えばこの本。

女はつまる 男はくだる おなかの調子は3分でよくなる!

女はつまる 男はくだる おなかの調子は3分でよくなる!

☆2である。お勧めの本を訊かれてこれを取り上げることはまず無いからだ。しかし、この本が必要な人もいるだろう。そこでレビューにはこう書いた。

便秘か下痢で悩んでいるなら★★★★★

このように、特定の条件を満たす場合に評価が変わる本は、レビューで対応することにしたのだ。レビューを見ずに☆だけで判断する人のことは知らない。たかだか数行のレビューすら読めない人が、その数千倍の文字数である本を読めるはずがないからだ。

このようにレビューで特定の条件には対応できるが、それでも人によって異なる趣味趣向まではいちいち対応できない。そこでもう一つの策の出番である。それは特定の個人を想定して評価する、というものだ。当然その相手は俺に最も「何かオススメの本ない?」訊いてくる者である。これで迷いはない。

これでは一般に公開するレビューとして不適切ではないか、と思う人もいるだろう。俺はそう思わない。むしろ一貫した価値観のもとに評価を下すのであるから、その人にとって俺というレビュアーが参考になるかどうかが、はっきりする。そもそも本の評価で誰にも参考になる、というのは実質不可能なのだ。それならば方針が定まっている方が良い。システムは一つの目的を完璧に遂行できるように作るべきなのだから。

なお、過去の本について評価が行われていないのは、単にこの方式を考案したのが最近だからである。

☆5の本たち

本の評価をし始めたのが最近ということもあって、☆5の本はまだ4冊しかない。なので全部紹介する。

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

『ローマ人の物語』はローマの歴史が長いだけあって全部読むのは大変だが、『ギリシア人の物語』は現在これ1巻しかなく、全3巻の予定であるから気軽に読める。「ギリシア人」とは言いつつも、実際はアテネにタッチでスパルタと言ったところ。この本は特に『ヒストリエ』ファンに勧めたい。それもヘロドトスの『歴史』に興味はあるが読んでいない、あるいは挫折した人に。ペルシア戦争についてはこれを読めばだいたい分かる。少なくとも『300』よりは史実を知れると言っていいだろう。


わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)

また塩野七生が出てくるのはしょうがない。何しろこの評価は一貫した価値観のもとに下されているのだから。
さて、マキアヴェッリは『君主論』だけの人物ではない。あのような本を書くからてっきり冷酷な人物だと思っていたが、これを読むと印象がまるっきり変わる。今なら愉快な人であると紹介する。そのへんの面白さについては別に記事として書いたので、そちらを読んでもらいたい。


チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷―塩野七生ルネサンス著作集3―

チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷―塩野七生ルネサンス著作集3―

『我が友マキアヴェッリ』の前に読むべき本。


サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠 (文春e-book)

サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠 (文春e-book)

なんて紹介しようかと書いたレビューを見てみたら、

後で書く

の一言。レビューを書く前に“彼”が購入して読み始め、急ぐ必要はないかと思ってそのままであった。仕方が無いので今書こう。

この本は組織内における「サイロ」、つまり部門やチーム間の交流が無くなり、自分たちの領域に閉じこもると、どのような弊害が起こるかが記されている。そのダメな例としてソニーが登場し、日本人として思わず苦笑してしまう。一方で「サイロ」をいかに壊すか、そして「サイロ」の壁を越えると何が起こるかについてもちゃんと書いてある。やはり今の時代、いかにして複数のジャンルを組み合わせるかが重要であると言うしかない。

終わりに

というわけで以上が俺の本棚の紹介である。基本的にこれからも公開し続けるつもりなので、俺と趣味が近いと感じた人は参考にするといい。

まあ、どうせ俺の薦める本を購入するのなら、このブログからにしてもらいたいが。

本の記事

進化論を学ぶなら、まず思想を捨てなさい

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この記事は本を紹介したところから始まる進化論と人類についての講義である。

まず時間を用意することを薦める。

講義を始めるにあたって

進化の話をしよう。別にポケモンの流れに乗っかろうというわけではない。

きっかけはこのブコメである。

不倫やポリアモニーって種として自然なことなのかもな - はてこはときどき外に出る

まだなら「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」を読むべき

2016/07/07 17:28

それに対しての記事がこれ。

id:honeshabriさんにすすめられた本読んでがっかりしてるなりよ。すごく楽しみに読み始めたけど侵略者の既得権益側にいる子育て嫌いな男が既存の価値観に自然をすりあわせて書いたみたいな本でげんなりしてるわ。「雄雌は子育てを相手に押し付け合っている」とか「押し切られた方が」とか半陰陽のことを「本物の女より女に見える」とか、いろいろひどくて見てらんない。


id:honeshabriさんがどういうお考えでこの本を紹介してくださったのかいつか教えていただきたい。

記事を読んで俺は思った。これは講義の必要があるな、と。誤字ではない。進化論と人類について講義するべきだと思ったのだ。

この人は明らかに進化論を誤解しているし、人類の祖先に対する認識もズレている。これは、ある種の思想を通して生命の進化と向き合ったがゆえに、本の内容を読み取ることに失敗したのだろう。

だがそれでも俺は文句を言う気は無い。
なぜなら、人は失敗する生き物であり、大切なのはそこから何かを学ぶということなのだから。

本を薦めたわけ

なぜ俺が『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』を薦めたのかというと、俺からしてみればこの本と『GO WILD』や『BORN TO RUN』は同じカテゴリだからだ。3冊とも、人類が進化の過程で獲得した形質が、現代の生活に影響を及ぼしている、という点に置いて同じである。さらにブコメ先の記事のテーマ「人類は本来ポリアモミー(乱婚型)であるか」についての回答が書いてあるからだから、薦めるのは当然であろう。

さらにこんなことも言っていたわけであるし。

【草食向け】ヤレるメスの見分け方 - 本しゃぶり

最後の本のレビュー書いて欲しい。

2015/10/27 20:18

さて、「同じカテゴリ」とは言いつつも、こと人類の進化についてのみ語るのであれば、俺は『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』のほうがより説得力があると思っている。それは他二冊よりも遺伝の効率について重要視し、その証拠を提示しているからだ。しかし、いきなり俺が擁護したところで聞く耳を持たないだろう。こんなことを書いているのだから。

ジャレドは自分の遺伝子を残すことを最優先に生命は進化したと考えているけれど、これは自然から出た結論じゃなく、相続を血縁に限定する欧米の社会制度を本能によるものだと考えた結果だとわたしは思うわ。
ポリアモリーとカップリングと集団保育と多読書感想文 - はてこはときどき外に出る

なのでまず進化における、遺伝子を残すことの重要性から説明していきたいと思う。

進化論入門

id:kutabirehatekoは、生命は遺伝子を残すことを最優先に進化したと考えるのは間違いであり、「自分の遺伝子を残す以外のミッション」があると言う。その根拠の一つとして他人の子供がかわいいから、と述べている。

わたしがこんな風に思うのは継母の連れ子である継妹の子、つまり血の繋がりのない甥介がめちゃめちゃかわいいからでもある。


ところが血の繋がりが何もない甥介が発狂するくらいかわいいのでわたしの中の「かわいい=血の繋がり説」は崩れ去った。コロニーの中で慈しんで育てる子はかわいいのだ。
ポリアモリーとカップリングと集団保育と多読書感想文 - はてこはときどき外に出る

あえて言おう。「かわいい」それは進化論にとって大切なことだろうか
否、そのような要素は生物の進化にとって些細な事であり、基本原理には全く必要ない。生命の進化にとって大切なことは次の三つ。変異遺伝適応度である。これを理解せずに「多様性が必要」だとか、「猫の学習」だとかで進化を語るのは無意味だ。ポケモンで例えるならばHPも知らずに「役割破壊」や「130族抜き調整」を語るようなものである。というわけでこれら三つの要素の解説をしよう。

変異・遺伝・適応度

まず変異であるが、これは生命の持つ形質が変化することを指す。生命が多様性を持つのは変異が起きるからだ。そして変異が起きることによって、同じ種でも姿や行動に差が生まれることがある。この時、変異の内容についてはランダムであり、それが生存に有利であるとは限らない。有利なこともあれば、不利なこともあり、全く意味が無いかもしれない。変異はただ起きるだけなのだ。

二つ目の要素である遺伝、これは「遺伝」という単語から想像するまんまの意味である。つまり、親が持つ形質は子に伝わるということだ。無性生殖ならば変異が起きないかぎり全ての形質が伝わる。もちろん、変異が起きた生命が子を産めば、その変異で獲得した形質は遺伝によって子も持つことになる。

そして最後に適応度である。これは個体が他と比べて、一生涯にどれだけ子を残せるか、という値である。例えば普通サイズのクチバシを持つ鳥が1個体あたり平均2羽の雛を残せるのに対し、大型のクチバシを持つ鳥は1個体あたり平均3羽の雛を残せるとする。この場合、普通サイズの方を基準とするならば、普通サイズの適応度を1とし、大型の適応度を1.5とする。適応度は実際に結果として残した子の数で決まるのではなく、ある形質を持つ個体ならばどれくらい残せるかという、統計的に想定できる期待値となる。つまり、適応度が高い個体ほど多くの子を残せるのである。

これら3つの要素が組み合わさるとどうなるか。自然淘汰によって生命が進化する

Hw-darwin.jpg
By User: - From: H.F. Helmolt (ed.): History of the World. New York, 1901. Copied from University of Texas Portrait Gallery., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2140

ここでダーウィンがいう自然淘汰とは、㈠動植物の解剖学的な適応形質には変異があり、㈡そのうちある適応形質をそなえた個体はその他の個体よりも長く生存し、多くの子孫を残すことができ、㈢それゆえこれらの適応形質は世代が進むにつれて集団のなかに広まっていくという意味だ。
文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

実をいうとあの本にちゃんと書いてある。おそらくid:kutabirehatekoは深く考えずに読み飛ばしたのだろう。上記文章を正しく読み取れれば、ジャレド・ダイアモンドがあれほど「どうしたら遺伝子を残せるか」にこだわる*1理由も分かるはずだ。

とはいえ文章だけでは実感が沸かないと思うので、自然淘汰による生命の進化を単純なモデルで視覚化する。使うソフトはもちろんExcelだ。マスのことを「cell(細胞)」と呼ぶことからも分かるように、Excelはもともと細胞分裂をシミュレーションするために開発された*2。今回の目的にピッタリだ。

視覚化してみた

まず前提を説明する。

  • の二つの種が存在する (変異)
  • からはが生まれ、が生まれる (遺伝)
  • の適応度は 1.0 であり、の適応度は 1.1 である
  • 開始時の個体数の比は 1:1 である

ここでは両者の差は純粋に適応度のみである。この際、なぜ適応度が異なるかはどうでもいい。青は自分の子だけを育てるのに対し、赤は共同保育をしている、でもいい。各々が好きな様に想定していればいいのだ。ここはとりあえず、青は喫煙していて、赤は禁煙しているとする*3。その結果がこれである。

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横軸が世代交代数で縦軸が割合である。瞬く間に喫煙者が駆逐されていくのが分かるだろう。最初は同数であったのに、40サイクルもしたら2%程度になってしまった。自然淘汰が起きたのだ。

このように適応度が高いと爆発的に増えるのは、そこに複利の力が働くからである。生命の本質は自らを複製することだ。そしてその複製からもまた複製がされる。アインシュタインが言ったとされる*4言葉に「複利は宇宙で最も強大な力である*5」というのがあるが、こと生命について語るなら同意だ。

ところで、注意深い人はグラフの右上にがあるのに気がついただろう。実は41サイクル目に変異で新たな種が誕生したのだ。このの適応度は 1.2 である。きっとコイツは酒を飲まないタイプなのだろう。酒は理性を失わせるし健康にも悪い*6。その結果がこれだ。

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一度は支配者の地位を確立したかに思えた飲酒者も、緑が現れた途端にその数を減らすことになった。こいつらはしぶといが、もう50サイクルもしたら素敵な世界になるだろう。ところで右上にが。
コーヒーは精神を覚醒させる

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こうして紫が支配者となったのである。この一連の流れを、生物学者になったつもりで説明してみるとどうなるか。

「より多くの遺伝子を残すため、禁煙・禁酒を行い、コーヒーを飲むようになった」

しかし真実はそうでないことを諸君らは知っている。実際はこう言うべきなのだ。

「増える形質を持った種(遺伝子)が増える」

そう、生命は他の種との競争に勝とうしているのでもなければ、利己的に振る舞おうとしているのでもない。さらに進化には目指すべき場所も無ければ、ミッションも無い。ただ変異遺伝適応度という三つの要素によって形質を変えながら増えていくだけなのである。

やっぱり遺伝子を残したい

言うまでもなく、上記の内容は生物学者ならば誰でも理解していることである。反対の立場であろうとも、理解した上での反対だ。では生物学者たちは、なぜ「より多くの遺伝子を残すため〜」なんて言うのだろうか。答えは、その方が説明しやすいからである。

ここでもう一度、生物学者になったつもりの説明を見てみよう。

「より多くの遺伝子を残すため、禁煙・禁酒を行い、コーヒーを飲むようになった」

これでも結果としては正しい説明となっている。「禁煙・禁酒を行い、コーヒーを飲む」というこの流れは、より多くの遺伝子を残すことに繋がるからだ。そして「遺伝子を残すため」という目的は、どうしてそのような形質となったのかの説明に使える。「なぜコーヒーを飲むようになったかって?より多くの遺伝子を残すためさ」というように。

本来、因果関係は逆なのだが、説明にはこの方がいい。なぜなら「なんでコーヒーを飲むと遺伝子を多く残せるのか」というさらなる質問に対して「コーヒーは精神を覚醒させるから」と答えられるからだ。

したがって「より多くの遺伝子を残す」という事を目的として進化を語るのは理に適っているのである。実際はそのような目的は無かったとしても、結果としては「より多くの遺伝子を残す」ことになるのだから。

適応度高い系

ここまで来たらジャレド・ダイアモンドが「雄雌は子育てを相手に押し付け合っている」とか「カップル以外の雄雌が交尾をすることを雄にとってのダメージ」と書く理由も分かるだろう。そう書くことで説明できるからだ。もちろんその個体にとって実際にマイナス、というわけではない。ただ遺伝子が残らないだけだ。

もし自分が子育てをしないことでより多くの遺伝子を残せる=適応度が高まるのであれば、子育てをしない形質が広まっていく。中には変異で子育てを積極的にする、模範的なマイホーム個体も出てくるのだろう。しかし、それによって適応度が下がるのであれば、その形質は広まること無く消えていく。寝取られについても同じことだ。許容する個体の遺伝子は残らない一方で、寝取られNGの遺伝子が残るのであれば、やがてNGの個体だらけとなる。

そのようなわけで、生命が誕生してからの35億年間、生命は常に遺伝子が多く残せる方を選択してきた*7。もちろん実態は遺伝子を残せた方が残っているのである。だから進化の説明をする時は、常に遺伝子を残すためにはどうしたら、と語っていくのだ。

人類の歩み

進化論の基礎について語り終えたので、ようやく人類の進化について語る時が来た。

さて、例の記事では「人間を種としてカップリングするポリアモリーだろうと思う」ということで、その後理由が5個書いてある。

これを整理する。

  • 狩猟採集時代を想定 (持久狩猟から論を展開しているので200万~100万年前)
  • 人類はポリアモリー (乱婚型)だった
  • 狩りは男女混合で男女平等な社会
  • 集団生活による共同保育
  • 血縁・遺伝子の軽視

ではこれらが妥当と言えるのか考えていこう。

昔は乱婚していたのか

きっかけのテーマでもあるこれ。現在の人類は一夫一妻制であるが、その昔はどうであったのか。「昔」をどこまで遡るかによるが、ゴリラやチンパンジーの祖先らと分岐した後ならNOだろう。これはジャレド・ダイアモンドの主張だけで十分だ。まず人間がゴリラやチンパンジーと分かれる前は一夫多妻制である。

今日のヒトと、ヒトに最も近縁なチンパンジー、そしてゴリラを見ると、三種類の配偶システムのすべてを見ることができる。ゴリラはハーレム、チンパンジーは乱婚、そしてヒトは一夫一妻とハーレムの両方をとっている(図4‐2参照)。それゆえ、九〇〇万年前の「失われた環」の三種の子孫のなかで、少なくとも二種はもともとの交配システムを変化させてきたのに違いない。これとは別に、「失われた環」はハーレム型だったと考えられる有力な証拠がある。
文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

そして一夫多妻制の中で生まれた排卵隠蔽システムにより一夫一妻制に進むインセンティブが生まれる。

まず、排卵の隠蔽は乱婚かハーレム型の種のなかで生じる。次に、排卵の隠蔽が定着したところで、その種は一夫一妻に切り替わるのである(図4‐4参照)。
文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

乱婚制の入る隙間は無い。

一方でid:kutabirehatekoの根拠を見てみると、全て社会システムだけで語っている。このような社会であったら乱婚になるであろう、と。これは19世紀に流行った社会進化論の主張と同じである。所有権の概念によって結婚制度が変わっていくというものだ。

もしそうであるならば、現在の狩猟採集民族も乱婚制度でなければおかしい。しかし、ほとんど狩猟採集民族は一夫一妻制か一夫多妻制で乱婚制はほとんど無い。まれに乱婚制に近いものがあったとしても、そこには条件がつく。

中央アフリカザイール北東のバンプティー・ピグミーの場合、かつては乱婚制であったらしい。しかし、女性の性的価値が上昇すると共に男性の権威が低下して弱体化。結果、滅亡の危機に瀕して女性の役割を性役から重労働にシフトさせた。そして婚姻形態は一夫多妻制、一夫一妻制へと移っていった。

タヒチ島の場合だと女性は12~13歳頃から性交のテクニックを教わり、奔放なセックスを楽しむ。これは外交にセックスを使うことがきっかけで、これが習慣化。ついには他部族や異国の来訪者にも性的歓迎を迎えるようになったという。

ニューギニアのトロブリアンド島の場合はかなり自由だ。性交渉に一切の束縛が無いため、幼いころから性的遊戯にふける。そして思春期になればいよいよもって乱交だ。これが成り立つのは、ここの島民は性交と妊娠の因果関係を認識しておらず、女だけで子供ができると思っているからである。ただし、結婚すると性交は排他的となり、決まった相手と行うようになるとのこと。

せいぜいちょうどよさ気なのはカナダ北西部に住むヘヤー・インディアンくらいだろうか。この部族は婚前は頻繁に、結婚後も複数の相手と性交渉をし、その上夫婦関係に永続性が無い。しかも多くのものは共同的というのだから、かなり社会進化論者向けではないだろうか。しかしこの部族では人に食べられて死ぬのは良いこととされ、自分の子供を罪の意識もなく食べたという記録がある。だからと言って人類の祖先は子供を食べるのは普通だったと考えるのはおかしいだろう。

以上の各部族の説明はここから持ってきた。
『婚姻論 』付 世界の各部族(PDF)
文化が違いすぎるので、どこまで正しいのか俺には判断できない。

というわけで人類は元々乱婚制であった、とするのは無理がある。もちろんそんな部族は存在しなかったと断言するつもりはない。だが基本は一夫多妻制からの一夫一妻制だ。それを覆す証拠はまだ出てきていない。

人類は採集者で、菜食動物

次は狩猟について意見を述べよう。はっきり言えば『GO WILD』も『BORN TO RUN』も狩猟を過大評価している。

人類は狩猟者で、肉食動物だ。菜食主義の社会があったという記録はどこにもない。肉を食べることが人類を定義づける基本的事実であり、本来の食性なのだ。
GO WILD 野生の体を取り戻せ! ―科学が教えるトレイルラン、低炭水化物食、マインドフルネス

人類はここで書かれているほど狩猟していないし、肉食か菜食かと言ったら菜食である。特に「ランニングマン」であるホモ・エレクトスの時代ならなおさらだ。まずはゴリラやチンパンジーと分かれた頃から説明していこう。

聖書で最初に人が食していたのは果実であったが、これは割りといいところを突いている。人類と近い存在であるゴリラやチンパンジーがまず果実を求めることから分かるように、人類の祖先も果実食であった。これは歯の摩耗の特徴から示唆されている。

アダムとイヴは禁断の果実を食したことで楽園を追放されたのに対し、初期人類は気候の変化で果実を食せなくなったことで、楽園からサバンナへ出るはめとなった。この時人類が食べていたのは塊茎、種子、植物の茎といったものである。地面の下からそういった地下貯蔵器官を掘り起こしていたのだ。

400万年前から300万年前にアフリカ東部に暮らしていたアウストラロピテクス・アファレンシスには、まさにその特徴が伺える。彼らは大きな犬歯を手放すことで臼歯を進化させた。類人猿と比較すると、それは歯というにはあまりにも大きすぎた。大きく、分厚く、平ら、そして厚いエナメル質*8で覆われていた。それは硬質な食物を噛むためである。もちろん顎も頑丈だ。もし俺がアウストラロピテクスならば、アイコンの下顎をもっと大きくしただろう*9

Australopithecus afarensis.JPG
By No machine-readable author provided. 1997 assumed (based on copyright claims). - No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims)., CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1666845

およそ250万年前に石器が登場する。この時代の主役アウストラロピテクス・ガルヒでやっとまともに肉を食べ始める。しかしまだ脳のサイズが類人猿とそう変わらず、ランナーとしても完成していないガルヒに狩猟は無理だ。彼らは腐肉を漁り、石器で骨を砕き、中の骨髄をすすったのである*10。そしてまだまだ菜食がメインなのも変わらない。石器の大半は植物を切るのに使われていたからだ。

200万年前、ようやく「ランニングマン」であるホモ・エレクトスが登場する。彼らの走力はまず腐肉漁りに使われ、それから得たカロリーで脳を大きくする。そしてついに「持久狩猟」が行えるようになった。これでようやく男性は狩猟 (と引き続き腐肉漁り) を行い始め、女性は植物採集と、現代にも通じる狩猟採集民族の形ができ始めた。

男性が狩猟で女性が採集!
いったいこんな不届きで前時代的*11なことを言うのは誰なのか。

「持久狩猟」提案者の一人、ダニエル E リーバーマンその人である。

したがって肉食の発祥は、女性がもっぱら食料採集に専念する一方で、男性が採集に加えて狩猟と腐肉漁りも行なうという分業が確立したのと同時期だったと推測できる。


初期ホモ属が暮らしていたアフリカの生息環境では、間違いなく採集した植物が食事の大半だった。おそらくは七〇パーセント以上ではないか。
人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病 (早川書房)

人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病 (早川書房)

人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病 (早川書房)

さらに彼はこんなことも書いている。

ところが狩猟採集民は結婚し、夫が妻と子に食料を供給するというかたちで多大な投資をする。現代の狩猟採集民の男性は、狩猟によって一日三〇〇〇キロカロリーから六〇〇〇キロカロリーを手中にできる。自分と家族の分を除いてもなお余るほどだ。大きな獲物をしとめたときは、その肉を仲間全員に分け与えるが、それでも最大の取り分は家族に与える(14)。
人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病 (早川書房)

集団での分配、というのは確かに狩猟採集民族では必須である。しかしそれでも一夫一妻制にメリットはあるのだ。仲間は大切であるが、一番大切なのは自分の遺伝子を受け継いだ子供なのだから。

ジャレド・ダイアモンドだけでなく、ダニエル E リーバーマンですらこう言っているのだから、これが基本形ということなのだろう。もちろんこれも例によって、女性が狩りに参加することは 0 であった、と言うつもりはない。ただ一般的には狩猟採集民族であろうとも男女の分業はあったと考えたほうがいい。そして、血の繋がりを優先することも。

まず思想を捨てよ

以上で反論は十分だと思う。書いている方も疲れているのだから、読んでいてうんざりしている人もいるだろう。だがまだ終わりじゃない。

今回、id:kutabirehatekoが『GO WILD』と『BORN TO RUN』を高く評価し、『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』を強く否定したのは、カエサルが言ったとされるこの言葉に尽きると思う。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」*12

彼女のブログ「はてこはときどき外に出る」を読んでいると、ある思想が前面に押し出されているように思える。それは性役割を押し付けられることへの拒否血縁を重要視することの嫌悪である*13

「女子力」とは言い換えると「嫁力」で、「未熟な若い娘が好むと思われていること」「嫁にもらってもらえそうなこと」の代名詞になっている。そこにあるのは男性に選ばれるにふさわしいとされる古典的な女性の鋳型であって、女子が自分独自の力に自信を持つことを後押しするようなものではない。
女性のエンパワメントとハイヒール、そして男子とネクタイ - はてこはときどき外に出る

そもそも苦しいとき、辛いとき、困ったとき、寂しく心細いとき、血の繋がりによって強められるだろうか。どう考えてもそうではない。血の繋がりは魔法のように受容や慰撫をもたらしてはくれない。
おかあさんがほしい。おかあさんになりたい。 - はてこはときどき外に出る

この視点で例の3冊を見てみると、はっきり二つに分けられる。そのため俺にとっては同じカテゴリであっても、彼女にとってはそうでなかったのだろう。

別に俺は他人の思想にとやかく言うつもりはない。国や時代によって価値観が異なるのと同様に、個人間でも異なるのが当たり前だからだ。それにどちらかと言えば俺も性役割とかどうでもいいと思っているし*14、血縁よりも関係の深さが重要だと思っている*15。だが進化論を含め、科学に向き合うのであれば違う。誤解を恐れずに言えば、科学に対する時は思想を捨てるべきだ。必要なのは仮説である。

これは科学の歴史を見ていれば分かる。万物は数であると信じたピタゴラス学派は無理数を見なかったことにした。キリスト教徒のチェーザレ・クレモニーニは「天空にはふつうの計測の規則は適用されない」とガリレオ・ガリレイを批判した。余計な思想があると、見えるべきものも見えなくなるのである。

生物学においても同じようなことは起きている。現代の日本でも時折言われる「自然界には同性愛が無い」というものだ。もちろんこれは間違っている。前世紀には分かっていることだ。

それでも同性愛を不自然だと信じたい人の目には入らない。

今回の件も、俺からしてみればこれらと大差ない。
科学と向き合うならば、自分の思想を捨てる必要があるのだ。

次に読むべき本

「終わりに」に代えてid:kutabirehatekoが次に読んだほうがいい本を紹介しよう。もしすでに読んでいるならば読み返すべき。

利己的遺伝子から見た人間 愉快な進化論の授業 (PHPサイエンス・ワールド新書)

利己的遺伝子から見た人間 愉快な進化論の授業 (PHPサイエンス・ワールド新書)

進化論の入門書としてお勧め。薄い本なのですぐに読めるのがいい。筆者曰く「日本人ならばウィルソンの本を買ってはいけない。日本人向けに書かれたこの本を買うべき」とのこと。


人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病 (早川書房)

人体六〇〇万年史 上──科学が明かす進化・健康・疾病 (早川書房)

記事中でも紹介した「持久狩猟」提案者の一人、ダニエル E リーバーマンの本。「ランニングマン」がどのような種であったのかこれで分かる。


ヤバい経済学 [増補改訂版]

ヤバい経済学 [増補改訂版]

  • 作者:スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー,望月衛
  • 出版社/メーカー:東洋経済新報社
  • 発売日: 2007/04/27
  • メディア:単行本
  • 購入: 34人 クリック: 437回
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人類の進化とは全く関係ない本。人の行動はインセンティブで決まるということが分かる。たぶんこの手のドライな本を読んで耐性をつけた方がいい。


文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

進化論を学んでからもう一度挑戦すべき。

参考文献

目的別な本の紹介記事

*1:こう書くとジャレド・ダイアモンドが一生懸命子作りに励んでいるみたいだ。

*2:大嘘。

*3:発癌性の高いジメチルニトロサミンは、主流煙が5.3から43ナノグラムであるのに対して、副流煙では680から823ナノグラム。キノリンの副流煙にいたっては主流煙の11倍、およそ1万8千ナノグラム含まれている。つまり実際は吸う人間よりも、周りの人間の方が害が大きいのです。だから同じ所にいたら赤の適応度も下がる。悲劇。西ウド川区市民なんとかしろ。

*4:本当に言ったのかは怪しいが、アインシュタインが言ったとは言われている。

*5:基本相互作用にそんな力は無い、なんてツッコミは要らない。

*6:「酒は百薬の長」なんて言うが、あれは間違っている。適量の酒を飲む人が健康なのではない。健康だから酒を飲めるのである。同じ程度に健康であるのなら、酒を飲まないほうが健康的である:衝撃!「酒は百薬の長」はウソなのか 長生きする「適度の飲酒」は雀の涙ほど : J-CASTヘルスケア

*7:細かく言えば適応度を上げも下げもしない遺伝的浮動の話もあるのだが、ここでは一旦置いておく。

*8:実にチンパンジーの2倍である。

*9:そして頭部は平らにした。

*10:彼らに初代 骨しゃぶり の称号を与えたい。

*11:200万年前の話だから仕方ないね。

*12:塩野七生によればこの言葉を取り上げたのはマキアヴェッリらしいけど、彼がどこで書いたのか分からなくて気になる。

*13:『仮面ライダー ゴースト』は見せないようにしよう。

*14:そうでなければプリキュアを見ていることを公言したりしない。会社の人にも俺が見ていることはバレている。

*15:俺が血縁者をそれなりに大切とするのは、単に関係が深いからだ。

深夜アニメの性はなぜ奇妙に進化したのか

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深夜アニメはあからさまに服を脱ぎ捨て、性器は光で隠蔽され、ハーレム制である―
深夜アニメの性は他作品と比べてじつは奇妙である。
性のあり方はその視聴のあり方を決定づけている。

企業の組織の“形態”と対比させながら、深夜アニメの奇妙なセクシャリティの進化を解き明かす。

まえがき

性的な場面はいつもわれわれの心を虜にする。性はわれわれに最も深い喜びをもたらすが、逆に苦悩の種となることもある。そうした苦悩のほとんどは、進化によって生じた特殊な表現による誤解から生まれるものだ。

本記事は、深夜アニメの性的な表現 (サービスシーン) がどのようにして現在のようなものになったのかを考察するものである。他の物語とくらべて深夜アニメの性の表現がいかに珍妙であるかについて、ほとんどの方はご存じだろう。何か特別な進化的淘汰圧が作品に働いた結果、あれは特異な存在になったに違いない。

深夜アニメの性がどのように進化したかを理解することは、それ自体興味をそそるものだが、その他の分野の戦略を理解するうえでもとても大切だ。その他の戦略とは、例えば併合、問題解決、イノベーションを起こす能力などである。私は、深夜アニメの奇妙に進化した性はそれらに通じると考えている。

二つの到達点

今期、すなわち2016年夏アニメにおいて、頭抜けた作品が二つある。『魔装学園H×H(ハイブリッドハート)』『アンジュ・ヴィエルジュ』である。この両作品は舞台設定はよくあるものだ。
異世界からやってくる謎の侵略者と戦うため、学園都市に能力を持った少女たちが集められる。
これについては今さら言うことはない。特異な点はそのサービスシーンの使い方にある。

魔装学園H×H

『魔装学園H×H』は性と戦闘が不可分なものとなっている。それは、主人公にHな行為をされることでエネルギーが回復し、パワーアップする、ということだ。この世界では敵と戦うため、パワードスーツ「ハート・ハイブリッド・ギア」を装着する。もちろん適合者は女性しかいない。しかし、この物語の主人公、飛弾 傷無(ひだ きずな)は男性でありながら適合者となった。彼のギアは戦闘には向かないが、特殊な能力を持っている。主人公はヒロイン達を抱くことによって,パワードスーツを回復させることができるのだ。

ゆえに主人公は司令官である姉の命令で、ヒロイン達を片っ端から抱くことで回復させる。人類の命運がかかっているので主人公に拒否権は無い。そしてその行為は日常よりも戦闘時に求められる。ヒロイン達がダメージを受け、倒れこむその時、主人公はその場でヒロインを抱き、性的な快感を与えることで回復・強化させて再び敵へと立ち向かわせるのだ。

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『魔装学園H×H』2話より

このような作品であるため、『魔装学園H×H』の性と戦闘はシームレスにつながっており、サービスシーンを取り除いては物語が成り立たなくなる。この設定から無駄のない一体化された表現こそが『魔装学園H×H』の特徴なのである。

アンジュ・ヴィエルジュ

ではもう一方の『アンジュ・ヴィエルジュ』はどうなのか。この作品の異様さは設定ではなく時間配分にある。記念すべき第1話、見せ場である戦闘が3分続いた後、世界観の説明が1分半語られる。そしてOPが終わるとそこは風呂であった。この入浴が11分以上も続くことになる。ひたすら風呂での会話が続き、ようやく出たと思ったら露天風呂へと向かう。場面転換しても映るのは別の浴場だ。その風呂への執着は『テルマエ・ロマエ』に匹敵した。

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『アンジュ・ヴィエルジュ』1話より

現実の入浴ならいざしらず、物語において入浴のみでこれだけの時間を保たせることは不可能である。そこで『アンジュ・ヴィエルジュ』は浴場に大画面を設置した。これによって風呂に入りながら会議を行うことが可能となったのである。画面では入浴シーンが展開されていながら、そこでは反省会、口論、作戦会議が行われている。

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『アンジュ・ヴィエルジュ』1話より

この作品は戦闘と銭湯だけで構成されているのだ。

両作品の違い

さて、両作品について説明を終えたところで、その違いについて考えよう。これら二つの作品は、基本は同じながら全く別方向に進化を遂げていることが分かるだろう。一方が性と戦闘を融合させているのに対し、もう一方は完全に分離させている。一体どのような理由でこのような相違が生まれたのだろう。このような違いにこそ、世界の仕組みを読み解くカギが隠されている。

ここまで読んで、私のことを、いらぬ説明をしたがる象牙の塔の研究者の典型と思われる方もいるかもしれない。世界中のオタクから「説明などしてもらう必要はない。エロければ何でもいいのだ。そこに意味は無い」という反論が聞こえてきそうだ。

残念ながら、この答は科学者を満足させてはくれない。エロければいい、というのであれば、『魔装学園H×H』は別に戦闘の中で行為にふける必要はない。帰還してからマッサージする、という形でもいいではないか。逆に『アンジュ・ヴィエルジュ』はエネルギーを消費したりダメージを食らう度に脱げていく、というスタイルにしても構わないはずだ。しかし実際はそうなっていない。

作品を生み出すには多くのコストが掛かるため、無駄な要素を入れるのは大変だ。ましてやアニメ化するまで売れた、となれば、その構成には必然性がある。だからそれを解き明かすことに価値があるのだ。

企業戦略

さて、この問題を解き明かすにいたって、私はあえてアニメやその他の物語から一旦離れ、別の領域からアプローチしたいと思う。その領域とは企業である。私達が求めている答は企業の組織形態にあるのだ。

企業の組織形態はアニメの構造とはかけ離れているように思えるが、本記事の主題を例証するものであり、とても参考になる。すなわち、アニメの性的表現は性以外の作品構造的要因によって形作られるということがよく分かる。さらにアニメと違って対象が企業だと、オタク知識でマウンティングされないので、理論の展開もやりやすいのだ。

交差点の力

まず『魔装学園H×H』だが、これを理解するのに必要な概念は交差点である。交差点と言っても実際の道路の交差点のことではない。異なる分野が交わるところの話だ。一番有名な例を挙げるのならば、やはりこれしかない。

スティーブ・ジョブズがAppleについて語る時に使う「我々はテクノロジーとリベラル・アーツの交差点にいる」というフレーズ。このような、異なる分野を結びつけることこそイノベーションの本質である。これは何もジョブズやAppleの専売特許ではない。フランス・ヨハンソンはこの状態を「メディチ・エフェクト」と名付け、ルネサンス期はまさに交差点によって生まれたと語っている。

アイデアは交差点から生まれる イノベーションを量産する「メディチ・エフェクト」の起こし方

アイデアは交差点から生まれる イノベーションを量産する「メディチ・エフェクト」の起こし方

なぜ交差点が重要なのだろうか。ヨハンソンによると、単一の分野で生まれるアイデアというものは、ある特定の方向に沿って生み出されていくのに対し、複数の分野が交差することで生み出されるアイデアは、新しい方向へ飛躍したものになると言う。このような交差的イノベーションには意外性があり、時には新しい分野を切り開き、新たな方向的イノベーションを生み出す源泉となるのだ。

このような交差点を見つけ出すには、何も外部から専門家を新たに連れてくる必要はない。組織の構造を組換え、部門間にある壁を取り払えば、既存の人材だけでも交差点を発見することは可能である。

サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠

サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠

この本では組織内で発生するサイロ構造 (各部門がタコツボ化すること) の弊害を説く一方で、その壁が崩れた時に生み出される力の大きさについても書いている。例えばこの中で紹介されている総合病院クリーブランド・クリニックは、まさに組織構造を組み替えたことで新たな価値を提供した。カテゴライズを医者ではなく、患者を中心に行うことで複数の角度から総合的なアプローチができるようになった。

以上のことを踏まえた上で『魔装学園H×H』を捉え直してみよう。この作品は「石鹸枠*1」系統から分岐した作品である。この系統における性的なシーンというものは、イベントとして存在するものであった。それはヒロイン選定の儀式であり、物語上重要ではあるが、決して根幹に据えるものではなかった。

しかし『魔装学園H×H』は性を根幹にして物語を再構成したのである。これによって最も影響を受けたのがヒロインの立場だ。 彼女たちの立場は飛躍的に向上した

石鹸枠におけるヒロインの役割とは、主人公にとっての動機戦力である。特にピーチ姫的な動機として使われる事が多い。というのも、ヒロインも戦力としては申し分ないはずなのだが、主人公を活躍させるためにどうしても弱体化してしまう。そしてヒロインを助けるために主人公が奮闘し、問題を解決することになる。つまりヒロインは戦うこともできるが、それ以上に助けられる者としての側面が大きいのだ。

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『最弱無敗の神装機竜』12話より

だが、『魔装学園H×H』の主人公はヒーラーとして徹することにより、敵を倒すという華をヒロインに持たせることが可能となった。主人公がヒロインを助けるという構図は変更せずに、だ。主人公だけいれば解決するのでは、と言われることはもう無い。また、この分業制によってハーレム構造にも合理性が生まれたことも無視できないだろう。

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『魔装学園H×H』1話より

また、このように交差点の発想で作られているためか、この作品の随所にはイノベーションを生み出すためのヒントが隠されている。一つ取り上げるのならば、試行回数を増やすことで偶然を必然にする、ということだろう。

もう一度スティーブ・ジョブズに登場してもらう。彼がデザインしたPixarの社屋の玄関には、巨大なアトリウムを設置された。そこにはカフェテリアやメールボックスなどを集中させ、どの社員も一日に何度もそこへ訪れるように仕向けたのだ。これによって異なる部署の社員とも出会う回数が増え、新たなアイデアが生まれる場として機能している。

一方『魔装学園H×H』の主人公は男性でありながら女子寮に住まわされ、その部屋は施錠できないようになっている。これは他の女子生徒との間違いが発生することを期待されての処置なのだ。まさしく、新しいものを産み出すためには出会いの数を増やすことが肝心であり、一つ一つを見れば偶然であるが、俯瞰して見ればそれは必然となるのである。

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『魔装学園H×H』2話より

独立と保護

次は『アンジュ・ヴィエルジュ』について説明しよう。要素の統合、交差点の価値について述べたが、何でもかんでも統合すればよい、というものでは無い。時にはあえて分離させた方がいいのだ。

これについて知りたければ、買収した企業の扱い方に目を向ければよい。つまり、買収した企業を統合すべきか独立状態にしておくか、ということである。クレイトン・クリステンセンによれば、被買収企業の成功を導いた本当の要因がプロセス価値基準にあるならば、親会社への統合は絶対に避けなければならないと言っている。

イノベーションへの解 利益ある成長に向けて (Harvard business school press)

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  • 作者:クレイトン・クリステンセン,マイケル・レイナー,玉田俊平太,櫻井祐子
  • 出版社/メーカー:翔泳社
  • 発売日: 2003/12/13
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もし下手に統合すると、親会社の価値基準で判断されるようになり、せっかくの強みを失ってしまう。こうなるのは、新しい分野というものは既存の価値感だけでは判断できないからである。その新企業が持つ価値が、旧態然とした親会社では評価されない項目であることが、往々にしてあるのだ。なのであえて買収しても統合を避けておき、自由にやらせたほうが得であると言える。

あえて分けておいた有名な例としては、GoogleとYouTubeの関係がある。GoogleはYouTubeを16.5億ドルという大金を支払って買収したにも関わらず、関与は最低限にとどめておいた。ブランドとして残しただけでなく、オフィスもそのままにしておき、Tシャツよりアロハというような文化にいたるまで手付かずにしておいたのである。Googleは自分のやり方で動画サイトの運営を失敗していたのであるから、上手く行っているところに水をさしたくなかったのだ。

買収以外にも、社内起業のように新しい価値観が必要となるものは、上からの関与は少ないほうがよい。この時のポイントとしては、組織構造上だけでなく、物理的にも本社から距離を置くことが重要であると、日産フューチャーラボのイヴァン・オリビエは語っている。それこそが思考と創造の独立性を保つのだ、と。

ここで『アンジュ・ヴィエルジュ』に視点を戻そう。この作品の原作はマンガやラノベではなく、トレーディング・カードゲームである。このメディアの違いを理解しなくてはいけない。このカードゲームには脱衣が無い*2ということを。

アンジュ・ヴィエルジュ スターターデッキ AS-09 輝ける閃光 蒼月紗夜

アンジュ・ヴィエルジュ スターターデッキ AS-09 輝ける閃光 蒼月紗夜

この作品はプレイヤーを描くのではなく、ゲームの世界観を描いたアニメである。そのため、アニメにする際にはそのゲームの雰囲気から逸脱してはならない。特に戦闘描写は重要で、可能な限りそのままであることが求められる。そうするとシステムに脱衣が無いため、いかにキャラクターが扇情的な格好をしていようとも、戦闘はその独立性を保つ必要がある。

これに対するソリューションが、アニメ独自の脱衣をゲームでは描かれていない領域*3に詰め込むことであり、風呂なのである。これによってゲームの雰囲気を傷つけぬまま、性的なシーンをふんだんに入れることを達成したのだ。

この風呂を使う、というのは戦闘と性を分離し、自然な脱衣を行うのに有効な手法だ。特にわかりやすい作品としては『ガールズ&パンツァー』が挙げられるだろう。

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『ガールズ&パンツァー』3話より

この作品も戦闘は徹底的に戦車を主役として描き、余計な要素は排除されている。さらにタイトルとは反してパンチラが皆無*4であることは周知のとおりだ。そこで戦いの後に入浴を持ってくることにより、脱衣の確保を達成している。戦闘を純粋に戦闘として描くなら、風呂を用意するのが王道なのだ。

系統樹

さて、逆方向に進化した二作品について、それぞれの構成がなぜこうなったのか、ということについて説明してきた。『魔装学園H×H』は新しい価値を生み出すために要素を組み合わせ、『アンジュ・ヴィエルジュ』はカードゲームを活かすために風呂を用意した。しかし、これだけでは片手落ちである。なぜなら異なる点については語っていても、共通点については何の説明もなされていないからだ。

おそらく、読者の中には「深夜アニメだからといって、性的な表現をそこまでして入れる必要は無いのではないか」と思う人もいるだろう。実際、深夜アニメでもそういった要素が皆無と言っていい作品もあるのだから。もちろんこれには理由がある。それを知りたければ作品の系統樹を調べるのが近道だ。なぜなら物語というものは生命と同様、その先祖の形態に束縛され、そこから変化していくものである。

というわけで細かい話をする前に、今回取り上げた二作品の系統樹を見てもらおう。

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物語の系統樹は本来もっと複雑なものであり、生命以上に混みあったものである。ここでは分かりやすさのために要点を絞り、思い切ってシンプルにしてみた。

『魔装学園H×H』も『アンジュ・ヴィエルジュ』共に石鹸枠の系統から分岐した作品であり、さらに遡ると共通の祖先は聖書である。したがって気にすべきは以下の2点。

  • あの性表現は聖書由来であるのか
  • 石鹸枠はどれほど聖書の影響を受けているのか

ではこの2点について確認してみよう。

創世記

すでに述べたように、石鹸枠における性的なシーンとはヒロイン選定のイベントであり、基本的には物語の冒頭に行われる。世界観の説明がなされたのなら、次はキャラクター登場、そして儀式というように。

では聖書ではどうだっただろうか。まず第一章でヤハウェによる世界設定がされる。そして第二章、さっそくメインキャラが登場し、男女の出会いが展開される。

Albrecht Dürer - Adam and Eve (Prado) 2.jpg
By アルブレヒト・デューラー - Galería online del Museo del Prado de Madrid: Adán y Eva, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=150385

聖書由来ということがはっきりした。やはり物語の冒頭で起こるのは男女の出会いであり、その時は裸であるべきなのだ。このテンプレは2300年以上の歴史を持った、由緒正しきものなのである。

近親異種交配

石鹸枠はどれほど聖書からの影響を受けているのだろうか。序盤の展開や「油注ぎ」などが知られているが、他にはあるのだろうか。当然ある。特にはっきりしているのは、石鹸枠の特徴の一つ「学園都市」である。

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『魔装学園H×H』1話より

この手の作品は、主人公が学生であり、舞台も学校である。だがその実態は日本で見受けられる学校とは少々異なる。

  • 学園都市と呼ばれる程に大規模
  • 自治権を持ち、教師や学生の権限が強い

日本にも「学園都市」と呼ばれる都市はいくつかあるが、ここまで極端な存在ではない。このような学園都市はフィクション特有のものと考えるべきだろうか。そんなことはない。現実にこれらを満たす学園都市は存在したのだ。その名は《ウニベルシタス/universitas》。“university”の語源にしてギルドを意味するそれは、中世ヨーロッパに誕生した近代大学の始まりの姿である。

Laurentius de Voltolina 001.jpg
By Laurentius de Voltolina - The Yorck Project: 10.000 Meisterwerke der Malerei. DVD-ROM, 2002. ISBN 3936122202. Distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=160060

このころの大学というものは地域によっても異なるが、教師と学生によって構成されていたギルドである。建物ではなく、集団から始まっているのだ。したがって街全体が言わば学校であり、使える場所ならばどこでも講義は開かれた。そして教育を求めて学生たちは各地から都市に集まり、そこはまさに学園都市となっていたのである。

そして12世紀には早くも大学に自治特権が与えらる。神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世は、ボローニャ大学の教師と学生を皇帝の保護下に置くと宣言し、特権状を与えた。

Barbarossa.jpg
By unknown illustrator - Digital image from http://crusades.boisestate.edu/Europe/germany11.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15082

これはローマ教皇もすぐに倣うことになる。そのことが仇となって好き勝手する学生も現われ、犯罪行為も当然のごとく行われることさえもあったという。

以上のような中世の大学は、まさしくアニメにおける「学園都市」のモデルと言えるだろう。広さや権限、さらに治安の悪さにいたるまで引き継いでいる。

ところでこの中世の大学であるが、キリスト教システムの一部と言っても過言ではない。なにせ上位三学部の中で最も権威があるのは神学部であり、教会内で出世するためには大卒であることが必須であったのだから。さらに大学以前の教育現場とは修道院である上、大学にしてもその多くはカトリック教会の後援によるものなのだから。

ゆえに先の系統樹はこのように修正される。

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この系統樹は生命ではまずありえない構造となっている。それは一度分岐した枝が再び一つになる、ということだ。これは物語を含む文化の特徴である。生命の場合、基本的に交配というものは同じ種の中でしか行われない。行われることはあっても、それはかなり近い種の間で起こることであり、間違っても馬と白鳥が交配するということは無い。

しかし文化の場合はそのような制限は無く、全く異なる分野との交配が起きる。その話はすでに交差点のところで行ったとおりだ。

こうして見ると、石鹸枠は「聖書」と「聖書から生まれし学園都市」によって作られていることが分かる。つまり、聖書の血*5を色濃く受け継いでいるのだ。性的なシーンが存在するのも、適応度が高いというだけでなく、元々持っていた要素なためである。また、主人公が説教をするのも、率先して犠牲になるのも、遺伝によるものと言えるだろう。全ては進化で説明できるのだ。

あとがき

本記事は "Why Is Sex Fun? : The Evolution Of Human Sexuality(1997)"(『なぜセックスは楽しいか? ヒトのセクシュアリティの進化』)の翻訳である『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』のパロである。著者のジャレド・ダイアモンド博士はカリフォルニア大学ロサンゼルス校医学部生理学科の教授である。と同時に、ニューギニアを舞台にした鳥類の研究で長年にわたり第一線の業績をあげてきた、著名な進化生態学者でもある。おそらく日本語で書かれたこんなブログを読むことは無い。

前の記事で進化論について取り上げたところ、当然分かっている人もいる一方で、進化とは何なのか理解してない人も多くいる、ということを知ってしまった。20年も続くポケモン人気を見ていて、日本人は進化よりも変態のほうが性に合っているのではないかと思い、今回このような記事を書くことにした。

元ネタでは、読書案内と関連した原著論文の紹介があるので、ここでも参考にした本を挙げておく。もちろん邦訳のあるものだけである(順不同)。

石鹸枠解説記事

*1:石鹸枠とは (セッケンワクとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

*2:あくまでもシステムとしての話であり、イラストとしては存在する。

*3:アクションカードでは戦闘以外も描かれているが、それはメインではなく、世界の一部を切り取ったものに過ぎない。

*4:別に反してはいない。

*5:おそらくサイゼリヤで飲める。

シン・ゴジラの秋山殿リュック、安物ポーチ、MAGFORCE

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『シン・ゴジラ』をきっかけにリュックの話をする。
ネタバレは特に無い。リュックとポーチの話しかしないからだ。

ここのところ疲れる記事を連続で書いたので、今回はただの日記を書く。

オタクの防災リュック

『シン・ゴジラ』は公開初日に見た。

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見て最初のTweetがこれである。

例のこのリュックだ。

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優花里リュックサック:アクセサリーショップ LUXENT

時間は短かったが、あれだけはっきりと映っていればすぐに分かる。当然すぐに気がついたのは俺だけではない。その結果こんなことに。

さて、このシン・ゴジラに秋山殿リュック登場事件であるが、結果的にリアリティの高いシーンとなったのではないかと思う。上記Tweetへのリプライにもあったように、あれこそオタクの避難としてあるべき姿であるからだ。

ゴジラに限らず、災害などで避難しなくてはいけない事態になったとしよう。そんな時、人はどのような物を持ち出すだろうか。当然まずは貴重品・必需品である。そして次には、と考えた時に浮かぶのが思い出の品となる。そしてその人がオタクであるならば、それはコレクションであるだろう。それはHDDかもしれないし、同人誌かもしれない。何にせよ一部だけでも何とかして持ちだそうとするはずだ。

ではそれらをどうやって持ち出すか、という話になる。車が使える状況ではないため、自ら担ぐしか方法はない。となると、リュック一択である。容量と機動性を考えた場合、これが最善だ*1

こうして考えた場合、秋山殿リュックの強さが分かる。持ち出したいコレクションでありながら、持ち出す手段を兼ねているのだから。しかも所持者は秋山殿リュックを買うような人である。他にもっと向いているリュックを所持していたとしても、間違いなく秋山殿リュックを選択するだろう。隣の人に「いつでもどこでも野営できるから問題ない」と言いながら避難しているはずだ。

とまあグダグダと書いたが、実際のところは「また*2俺の知っているリュック出ないかな」と思っていた所に、まさかの秋山殿リュック登場でテンション上がったという話である。おかげでこの記事のアクセスが少し増えた。

値段相応なポーチ

そんな『シン・ゴジラ』を見たせいか、MOLLE対応のポーチが欲しくなった。いや、正確には前から欲しいと思っていたのだが、ついに買おうと決心したのである。それだけではなくモバイルバッテリーをすぐに取り出し、iPhoneをポケットに入れたまま充電したい、という欲求もあった。

そんな時にこのポーチがタイムセールで安かった。

不思議な事にあれから一週間も経っていないにも関わらず、値段は今のほうが安い。まあ20円は誤差の範囲としていいだろう。

俺は例の秋山殿を再現してから、バッグ関係は基本的にMAGFORCEにしようと考えていた。少々値は張るが、モノは丈夫だし利便性もいい。このようにブランドを固定するということについて昔はバカにしていた。しかしいざやってみると、選択肢が自然と絞りこまれ、迷いが減るということに気がついた。そこで今では、それなりにいいと思ったブランドは積極的に固定化しているのである。

しかしながらリュックに2万円出すのは良くても、ポーチに5千円出すのはまだ抵抗がある。なのでポーチについては縛りを解こうと思った。MOLLEの良いところは、メーカーが異なっていても装着できるところにある。規格による互換性のメリットを使わない理由は無い。

ともあれモノは無事に届いた。

f:id:honeshabri:20160807184544j:plain:w400

何か違和感を感じる。

しばらく眺めて気がついた。フラップが斜めになっているのである。
こうなっている理由は開いたところで判明した。

f:id:honeshabri:20160807184817j:plain

フラップの取り付け位置が完全にズレている。

フラップを真っ直ぐ下ろすとこうなる。

f:id:honeshabri:20160807185008j:plain:w400

いくらなんでも雑すぎるとしか言えない。
その他このポーチのクソなところ。

  • 商品画像ではステッチが白なのに実際は黒
  • 材質は「1000Dナイロン」だけど素材は「600D防水耐摩耗ナイロン生地」
  • ダブルジッパーではないため、取り付け向きによって片方が開きにくい

使用する上では問題ないとはいえ、なかなかひどい。最後のは使用上の問題なのだが、これに関しては俺の確認ミスであるため、目をつぶることにする。

MAGFORCEへの回帰

ポーチを取り付け終えて、俺の頭には定番な言葉が浮かんだ。

《安物買いの銭失い/Penny-wise and Pound-foolish》

だが続いて思う。このポーチに価値を与えのはこの俺である、と。

そこでこのポーチは試作品だと考えることにした。とりあえず使ってみて、自分にとって本当に欲しいものは何かを見つけ出せばいいのだ。そこで当初の目的どおりバッグに装着してみた。

f:id:honeshabri:20160807185948j:plain:w400

これで取り付かなかったらどうしようかと思ったが、さすがにそこまで酷くはなかった。
ちなみに装着先のバッグはこれである。

これで少しばかり使ったところ、俺の欲しい仕様がわかってきた。

  • 基本的に左右対称
  • ダブルジッパー
  • MOLLE
  • 20mm × 15mmくらいのサイズ

その結果、必要な製品を購入した。

適材適所という概念は正しい。バッグに取り付けたいポーチと腰に取り付けたいポーチは異なる。
これが真実である。

そして、信じる者は救われるということも。

他のMAGFORCE記事

テプラ対ゴジラ / 本当に欲しいグッズとは

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『シン・ゴジラ』の3回目を見た。

同じように何度も繰り返し見て、自分も巨災対の一員になりたい人に向けて書く。

そのテプラを貼ったら、君も巨災対だ!

f:id:honeshabri:20160821173643j:plain

先に訂正しておく。俺はまだ2回しか見ていなかった。

最初、本気で『シン・ゴジラ』を3回見たと思っていた。しかし、どう数え直しても俺は2回しか見ていない。おそらく連日『シン・ゴジラ』記事を読むことによるゴジラの過剰摂取により、脳がもう一回余計に見たと誤認識したのだろう。きっと俺以外にも、自分が何回見たのか分からなくなっている人がいるはずだ。

さて、このようにゴジラ ゴジラ言っていると、やはりゴジラ関係のグッズというものが欲しくなってくる。あまりグッズを買うことのない俺でさえ、しまむらのゴジラ対エヴァンゲリオンTシャツを買い、さらには『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』を注文してしまった。

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

しかしながら、何かが足りない。そしてそれは公式グッズでは満たされない。

本当に欲しいグッズ

本当に欲しいグッズは公式に無い。こう思っていたのは俺だけではないようだ。

分かる。実によく分かる。『シン・ゴジラ』の世界に浸るために、あの世界にあるものを欲するのだ。身も蓋もない言い方をすれば、これは「ごっこ」にすぎない。しかし、それで日々のモチベーションが上がるのであれば、良しとすべきである。特にこの作品は「仕事」に向かえる気にさせてくれるのだから、なおさらだ。

では、どのようなグッズが望ましいのだろう。俺は以下の3点を満たすものであると考える。

  • 実用性が高い
  • 隠密性がある
  • 手頃な値段

まず日常的に使いたいので実用性の高さは必須である。次にある程度の隠密性が欲しい。仕事とかで使おうと考えたら、あまりにもデカデカと「巨災対」とか書かれていては困る。やはり知らない人には普通のものだが、知る人が見れば分かる、というものがいい。そして最後に当然のごとく値段である。

とはいえ、こういったグッズを公式に期待するというのは、酷というものだ。なぜなら人によって何が実用的かは異なる。さらに実用性を重視するほどに、それは既存の製品と比較されることになる。そうなると版権料がゼロであったとしても、ロットの関係からコストは上がり、割高な製品となってしまうからだ。

だが、諦めるのはまだ早い。そんな人のためにあるのがプロダクト・プレイスメントである。

プロダクト・プレイスメント

プロダクト・プレイスメント(Product Placement)とは、広告手法の一つで映画やテレビドラマの劇中において、役者の小道具として、または背景として実在する企業名・商品名(商標)を表示させる手法のことを指す。略してP.P.(もしくはPP)ともいう。
プロダクトプレイスメント - Wikipedia: フリー百科事典(2016/08/21 15:34 JSTの最新版)

以前このブログで取り上げた、アイアンマンのリュックがまさにこれである。

これならば実用性、隠密性、そして値段と、全ての要求を満たしている。なぜならば作品と関係なく作られ、販売しているからだ。

ちなみにプロダクト・プレイスメントはメーカーと契約を結んで行われるが、アニメの場合だと実物ではないため勝手に登場させることも多い。岡田斗司夫によると、無許可で実在の製品を積極的にアニメで登場させるのは、庵野秀明の初監督作品である『トップをねらえ!』が最初であるらしい。

あと『トップ』がやったちょっとヘンテコな実験っていうのは、実在のメーカーの製品を積極的に描いていくってことです。それまでアニメ業界がなぜか避けてたことで、僕らはそれが割とイヤだったんです。


で、『トップ』以後はアニメ業界でも、ごく普通に実在の商品名やブランドとか画面に出せるようになったんですね。
アニメの教科書 上巻: 岡田斗司夫の『遺言』より

例の秋山殿リュック*1の凄いところは、実在の製品をモデルとしたものを作中に登場させながら、その後に公式グッズとしてリュックを販売したところにある*2

話を『シン・ゴジラ』に戻そう。この映画でも多数のプロダクトプレイスメントが行われている。だからといってデュポンのタイベック防護服や3Mの防毒マスクを買うというのはハードルが高い。

そこでお勧めなのがキングジムの製品である。

キングジム 保存ボックス  4370 A4

キングジム 保存ボックス 4370 A4

キングジム 図面ファイル GS 1183 A3 2つ折 青

キングジム 図面ファイル GS 1183 A3 2つ折 青

これならば実用的で隠密性もあり、安価である。もちろん仕事場で使うのも簡単だ。すでに仕事で使っている人も多いだろう。

ただしこれらには一つ難点がある。それはあまりにも日常的すぎるということだ。劇中同様の格好をしても、仕事中の人にしか見えない。

これでテンションを上げるには、かなりの想像力を必要としてしまう。

この問題を解決するのがテプラである。

テプラ対ゴジラ

《テプラ/TEPRA》とはキングジムが製造・販売しているラベルプリンターである。

「テプラ」PRO | 商品情報 | ファイルとテプラのキングジム

つまり、このようなことが出来るのだ。

このTweetを見た時、先に言われてしまった、と思うと同時に、自分の考えの正しさが証明された、とも思った。ゴジラを倒したのはテプラである、と。

テプラの何が素晴らしいかというと、そのリアリティにある。巨災対ではどのような備品が使われているだろうか。巨災対は急遽立ち上げられた組織であるため、そこにあるものは全て他のところからかき集めてきたものである。したがってそれらには最初から「巨大不明生物災害対策本部」と印字されているはずがない。間違いなくテプラを貼ることで、巨災対の備品としたはずだ。つまり、テプラでラベリングすれば、それは巨災対の備品となるのである。

この「ラベリング」という行為は、ある意味『シン・ゴジラ』を象徴するものであろう。それもゴジラに立ち向かっていった人間たちを。この作品の主要人物は必ずラベリングされている。最初に登場する時はもちろんのこと、肩書きが変われば、その都度字幕が表示される。しかし、彼らの外見が変わるわけではない。あくまでもラベルが変更されるのだ。

一方でゴジラは逆である。その外見は複数回にわたって大きく変化するにも関わらず、ゴジラがラベリングされることは一切無い。なぜならばその姿形が全てであり、説明の必要が無いからなのである。そして何より今回のゴジラは巨大“不明”生物なのだから。

従ってこの作品は、ラベリング「された者」と「されない者」の戦いであると言える。だからこそラベリングされず姿形が変化するゴジラに対し切り札として投入されたのが、見かけはそのままにラベリングされた無人在来線爆弾であったのだ。まさしく「現実 対 虚構」とは「テプラ 対 ゴジラ」という訳である。

キングジム ラベルライター テプラPRO ソリッドグレー SR970

キングジム ラベルライター テプラPRO ソリッドグレー SR970


このブログの特徴が分かる記事10選

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この記事は「本しゃぶり」がどのようなブログであるかを紹介する記事である。

言葉を費やすよりも実際に読んでもらうほうが分かると思うので、特徴的と思われる記事を10個選んだ。

本の紹介

このブログはタイトルからも分かるように、元々読書ブログである。従ってメインコンテンツは一応「読んだ本の紹介」ということになる。

特徴としては、ただ本を紹介するのではなく、マンガやアニメと絡めて行うことが多い。これは俺が本を読むきっかけとして、マンガ・アニメであることが多いからだ。


『ヒストリエ』は好きな作品で、このブログで度々取り上げている。この記事はそのまとめとでも言うべきものであり、『ヒストリエ』の世界をより詳しく知りたい人にお薦めの記事となっている。


近年流行りの異世界転生というジャンル。この記事では、あなたが異世界転生する前に獲得しておきたい知識を得られる。もちろん異世界転生の話を創りたい人にも役立つだろう。


本の紹介というよりは、次のアニメ考察ネタに近い記事。元々歴史は好きだったが、『ローマ人の物語』を読んでから古代ローマネタを使うようになった。その象徴とも言える記事である。

アニメ考察ネタ

おそらくこのブログを知ったきっかけは、こっちの方が多いのではないだろうか。

内容としてはアニメ考察ネタとしか言えない。気になった作品についてどこまで深掘りできるか、ということに挑戦している。


ある意味でこのブログの顔というべき記事。なにせ累計アクセス数の1/3以上をこの記事が叩き出しているのだから。おかげでアニメ記事がバズる度に「聖書の人」と呼ばれる。


上の続きというべき記事。それなりにバズった結果、この記事と「なぜラノベ原作〜」の記事はセットで英訳された。

秋山殿リュックとMAGFORCE

『ガールズ&パンツァー』の秋山殿リュック*1をきっかけにMAGFORCEを使うようになった。その辺のレビューや登場作品の紹介などについての記事。

特に記事が多かったりバズったりしているわけではない。しかしこのブログにおける検索流入のほとんどがこのジャンルなのである。おそらくあまりにもピンポイントな内容であるためだろう。


というわけできっかけとなった秋山殿リュックの記事。今になって秋山殿リュックが欲しくなった人にとっては、世界一役に立つと言ってもいい。


秋山殿リュックのモデルと思われるMAGFORCEは、様々な映画で使われている。それをネタにしたのがこの記事。

海外聖地巡礼

ある意味で最も俺の趣味の記事。なにせ他と比べて費やした金額が違う。そしてアクセス数からしてみても「趣味」と言うにふさわしい。

内容はその名の通り海外への聖地巡礼レポ。そうそう行けるわけではないので1年に1つが限界。


『トランスフォーマー リベンジ』の聖地巡礼でヨルダンのペトラ遺跡に行った。エド・ディル前で撮影したバンブルビーの写真は人に見せると大抵CGだと誤解される。


『ジョジョの奇妙な冒険 第三部』の聖地巡礼でインド横断1440kmの旅。アニメ放送中に現地へ行くというリアルタイム巡礼に挑戦した。


『ヒストリエ』の聖地巡礼でトルコに行った。ビザンティオンやトロイはともかく、これ目的でパフラゴニアに行くのは珍しいと思う。おそらくこのブログで最も長い記事。

終わりに

このブログを始めて気がつけば3年間以上経った。振り返ってみると色々やっているようでもあり、偏っているようでもある。人間というものはブログに限らず、このようなものなのだろう。

ともあれ、このブログはこれからも続けていきたい。
クリフォード・ストール曰く「文章のないところに現象はない」のだから。

カッコウはコンピュータに卵を産む〈上〉

カッコウはコンピュータに卵を産む〈上〉

カッコウはコンピュータに卵を産む〈下〉

カッコウはコンピュータに卵を産む〈下〉

はてなブログの文字数制限

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655,360バイトまで。
全角は3バイト、改行は2バイトで表される。
ちなみにMarkdownでのみ確認。

確認方法

Step1 エクセルに文字を打ち込む
f:id:honeshabri:20160919155940j:plain


Step2 コピペする
f:id:honeshabri:20160919163518j:plain


Step3 保存できない

f:id:honeshabri:20160919160302p:plain:w400

わかったこと

冒頭に書いたように保存できる上限は655,360バイトである。

右下に表示される文字カウントは全角でも半角でも1文字扱い*1であるが、保存時はバイト数で制限がかかるため、保存できる文字数は異なる。

バイト数は以下の通り。

  • 半角英数:1バイト
  • 全角:3バイト
  • 改行:2バイト

ただし、保存時は改行を1バイトとしてカウントしているようである。そのため、半角英数と改行で655,360文字までなら保存が実行できてしまう。しかし、保存自体は改行を2バイトで計算することになるため、655,360バイト以上の文字は切り捨てられ、保存されていないので注意が必要だ。

これで保存できるのだが……
f:id:honeshabri:20160919163550j:plain

開くとこうなっている
f:id:honeshabri:20160919163626j:plain

きっかけ

前回のアニメリスト記事。

アニメ1万タイトルを一つの記事に貼り付けて、史上最もアニメタイトルが記載されたブログ記事だ!とやろうとしたところ、文字数制限に引っかかてしまった。仕方がないので前後編に分けることに。

このような悲劇を繰り返すことのないようにと、俺は調査することを決意したわけである。

しかし、はてなブログのヘルプを見ても本文の文字数制限について書いてなく、ググってみても「はてなブログには文字数制限が無い」と書かれている始末。

20万文字とか50万文字になったらどうなるか?とかまでは試していないので、断定は出来ないけど、おそらくはてなブログに文字数制限はありません。

もっと頑張れ。俺は普通に記事を書いていて制限に引っかかったぞ。

はてなブログにも文字数制限は存在するため、長文を書くタイプの人は注意して頂きたい。

*1:絵文字は1個で2文字扱い

アニメに「驚き」が多い時代はいつなのか

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昔に比べて今のはダメだ。様々な分野で聞く言葉である。
それはアニメも例外ではない。しかし、本当にそうだろうか。

調査の結果、今のアニメのほうが「驚き」に満ちていることがわかった。

リストの使いみち

おすすめアニメまとめ記事に「母集団が書いていない」とコメントをする今日このごろ。ネットをさまよっていたらこんな記事を読んだ。

要約すると

  • 2016年の秋アニメのタイトルには「!」が多い気がする
  • 2016年の他のシーズンと比べたら多いということがわかった
  • 『競女!!!!!!!!』が凄い


……ここに100年分のアニメタイトルのリストがある。


リストの力を見せる時が来た。

「!」の数

秋アニメを加え、計10,247作品がある我がリスト。これから年ごとに「!」の数を集計した。

f:id:honeshabri:20161004002147p:plain

「!」数トップは2010年の96個。2位が2011年の95である。今年、2016年の「!」数は85個で、2015年と同率3位となっている。

このアニメタイトルには映画やOVA、TVスペシャルなんかも含まれている。これらにはサブタイトルが付くため、通常よりも「!」の数が増える傾向にある。そこでそれらを除いたTVアニメのみ*1で集計し直した。その結果がこれだ。

f:id:honeshabri:20161004002202p:plain

TVのみにしてみると、2016年が73個でトップになった。こうして見ると、アニメの「!」は年々増加傾向にあると言える。

平均

「!」が年々増加傾向にあると言っても、アニメの本数が昔に比べて増えているのだから当然だ、と考える人もいるだろう。そこで、アニメタイトル全部とTVアニメのみそれぞれで、1タイトルあたりの「!」平均値を出した。

f:id:honeshabri:20161004002218p:plain
f:id:honeshabri:20161004002230p:plain

この結果からもアニメタイトルの「!」は増加の傾向があること、2016年はこの100年で最多の年であることがわかる。

「!」の多い作品

元記事には「!」の多い作品について、このように書いてある。

ここ10年を調べてもタイトルに感嘆符は1つか2つしかついておらず、さらに過去にさかのぼって80年代でも『パタリロ!』、『ハイスクール!奇面組』や『魁!!男塾』、『ストップ!!ひばりくん!』など、多くても3つだった。『競女!!!!!!!!』は今までのアニメ史上でも最多の数だろう。
2016年テレビアニメ「!」が付くタイトルを数えてみた まさかの合計57個! | アニメ!アニメ!

『競女!!!!!!!!』が圧倒的に多いことは認めるが、過去に遡っても「多くて3つ」というのは本当だろうか。そこで確認してみた。

まずTVシリーズに限って言うのであれば、過去にも「!」4つの作品は存在する
2006年冬アニメの『あまえないでよっ!! 喝!!』だ。

あまえないでよっ!!喝!! VOL.1(初回版・CD同梱) [DVD]

あまえないでよっ!!喝!! VOL.1(初回版・CD同梱) [DVD]

また、『おはスタ』内で2010年の7月と9月に放送された『GO!GO!ムッシーヒーロー!!』もそうだ。確かに4つ持ちは貴重だが、過去に存在しなかったわけではない。3つ持ちならば過去10年でも複数ある

  • クプ〜!!まめゴマ! (2009年)
  • ファイト一発!充電ちゃん!! (2009年)
  • グッド・モーニング!!!ドロンジョ (2015年 『ZIP!』内で放送)
  • WORKING!!! (2015年)

さらにTVアニメに限らず映画に目を向けてみれば、7つ持ちが存在する。
『映画 Go!プリンセスプリキュア Go!Go!!豪華3本立て!!! パンプキン王国のたからもの』だ。

映画Go!プリンセスプリキュア Go!Go!!豪華3本立て!!!(Blu-ray特装版)

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惜しくも『競女!!!!!!!!』には届かなかったが、それでもなかなかのものと言えるだろう。

未来予想

さて、元記事では今後タイトルのトレンドがどのようになるのか、と書いている。そこで過去のデータを元に未来予想をしようと思う。

Excelの便利な機能に近似曲線というものがある。TVアニメ「!」数の近似曲線を出してみれば、数式で傾向がわかるはずだ。

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TVアニメタイトルの「!」は指数関数的に増加していることが判明した。決定係数R2が0.9以上であることから、これは実態を表していると言えるだろう。

更にExcelはこの近似曲線を先へと伸ばすことで、未来を予測することが出来る。このペースで行くと2020年にはどうなっているのか。

f:id:honeshabri:20161004002306p:plain

なんと「!」が100に届こうとしている。TVアニメの本数が今と同じ年間200作品ほどであるならば、2作品あれば片方には「!」がついていることになる。

さらにその先の2045年はどうなるのか。

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特異点に備えろ。

シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき

シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき

おまけ

アニメリストは「!」の数を調べる以外にも役立つ。

*1:2014年10月分までは基本的にメディア芸術データベースの分類そのまま。それ以降は俺が追加したものなので、TVシリーズのみとなっている。

100年分のアニメ作品リストをExcelデータで公開した

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以前書いたこの記事。

これを書くのに使った元データを公開することにした。
2016/10/08時点で1917年から2016年10月までの100年分、10,255作品のタイトルと開始年月日が分かる。

Dropbox - animedb(shared).xlsx

2016/11/19 更新
githubcsvファイルを配布するようにした。Excelデータよりこっちの方が新しい。

github.com

f:id:honeshabri:20161008180520j:plain

github

要望があったのでgithubでも公開した。
現在はこちらが最新版である。今後もマスターデータはgithubで管理していく。

github.com

ライセンス

本ソフトウェア(ソースコードおよびデータベース)の利用はMIT ライセンスに基づく。また、メディア芸術データベース利用規約に準ずること。

使い方

Dropboxのページで見るなり、ダウンロードして弄るなり好きにすればいい。おすすめアニメ記事を書くときのチェックリストとして最適。他にもアニメタイトルに使われている「!」を数えるのにも向いている。

リストの説明

前の記事に書いた内容の引用と追記。

母集団

基本は「メディア芸術データベース」から2015年11月1日に取ってきたデータである。しかしそのままでは重複や表記ブレ、誤字脱字などがあって使い物にならない。そこで「アニメ作品事典」やWikipediaその他サイトを参考に加筆修正を行ったものである。

総数は10,137作品、1917年から2016年9月18日までを対象としている。メディア芸術データベースには2014年10月までのデータしかなかったため、俺らで可能な限り追加したが、当然抜けている作品も多く存在する。特にここ2年の円盤特典OVAなどはほとんど抜けていると思ってもらって構わない。

作品の切り分けはメディア芸術データベースに倣って、放送局と同じようにしている。つまり、分割2クール作品は別モノ扱いとなっている。

作品名

「アニメ作品事典」やネットを参考に表記した。俺が調べた限りだと、アニメ作品の「正式名称」は存在ない。なので一般的に使われているものを採用することにした。また、TV版と劇場版や分割2クール作品のように同名の作品名がある場合は、“()”で判別するための添え名を用意し、作品名+添名で識別名としている*1

よみがな

数字などもカタカナ表記にしている。声に出さない記号などは表記しない。基本的になんと読めばいいか分かるようにしたい。「()」や「・」が付いているものもあるが、それは修正しきれていないだけである。

開始年月日

放映開始、あるいは販売開始日である。出来る限り日付まで調べたが、中には年しか特定できていないものも存在する。また、TV局のような「5時〜29時」ではなく、「0時〜24時」の実日実時間で表記している。

終了年月日

開始年月日の終了版。1話完結だと開始年月日と同じになる。開始年月日よりも特定しにくいため、抜けているのが多い。

他の項目

察してください。表記が統一されていないのは修正が間に合っていないためと思っておけばだいたい合っている。

信頼性

この前の記事を書く時『GO!GO!ムッシーヒーロー!!』が『GO!GO!ムッチーヒーロー!!』になっていることに気がついた。2015年11月時点のメディア芸術データベースよりは信頼できると自負している。もちろんこのリストを使用することで何かしらの損失を被っても、俺は一切の責任をとらない。

リストを作った理由

Wikipediaを始めとして、アニメデータベース的なサイトは数多くある。しかしそれらは、一つの作品について調べるときには役立つが、アニメを横断的に調べるのには向かない。例えば前回の記事。

こういうことをWikipediaなどでやるには手間がかかる。俺達が欲しかったのは構造化されたアニメのデータなのだ。しかしそういったものが見つからなかったため、自分達で用意することにしたのである。まずは作品単位のタイトルから収集と修正を行い始め、ある程度形になったのがアレというわけだ。ブクマコメントにもあったが、最終的には各話情報まできれいにまとめたいと考えている。

リストを公開した理由

欲しいという人が複数いたから。

リストのここが間違っている

メールアドレスを教えてくれたら編集権を渡す。その場合は以下の利用規約に同意したと見なす。

Dropbox - 利用規約.txt

正直な話、日に日に増えるアニメのリスト化作業は大変なので、やりたいという人がいたら歓迎する。編集まではしたくないけれど、間違いを指摘したいと言う人はDropboxのコメント機能を使ってくれればいい。なんならこの記事のブクマでも構わない。

上で書いたように、現在はgithubで管理している。編集してくれる人募集中。

GitHub - anilogia/animedb: 約100年に渡るアニメ作品リストデータベース

その他

Excel形式なのはExcelで作っていたから。最初はGoogle Driveで公開しようとした。しかし1万行以上あるため、重すぎてまともに編集ができなかったのでやめた。csvで欲しいという人は自分で何とかしろ。

このリストを再利用するさいには上記のライセンスを守ることと、自己責任であることの2点に注意。加えてこのブログのURLを貼ってくれると助かる。宣伝になるのはもとより、リストを使って何をしたのか興味があるからだ。

Anilogiaは仲間内での本プロジェクト名。

リストについて何か追加で説明をしたい時は、今のところこの記事に加筆する形で行う予定。

githubをメインに使っていく。

データから辞書を作ってみた

*1:前の記事の作品名はこの識別名。

「競女」のルーツを文化的な視点から探る

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『競女!!!!!!!!』は荒唐無稽な作品である。
しかし、「競女」という競技自体は日本文化的に正しく、実際にありえてもおかしくない。
本記事では「競女」の歴史について解説する。

f:id:honeshabri:20161009222342j:plain

2016年秋アニメから

数ある2016年秋アニメにおいて、最も注目すべき作品が『競女!!!!!!!!』である。何しろ2016年どころか、アニメの歴史100年の中でもトップに君臨する*1のだから当然であろう。

1話の時点での評判はそれなりにいいが、感想を見ると引っかかる点がある。それは、技や演出のみならず「競女」という競技そのものについても荒唐無稽でバカげている、というものだ。あの競技は完全にフィクションであるのだ、と。

それは間違っている。「競女」という競技は、日本の文化を知っていれば実在していてもおかしくないと思うはずだ。しかしアニメでは尺の都合上、競女の歴史について語られることは無いだろう。だから俺が解説する。

競女とは

この記事を読む人間で競女を知らない者はいないと思うが、いちおう説明しておこう。公式サイトやWikipediaにはこのように書かれている。

競女とは…お尻や胸を使って水上で闘うギャンブル競技。2003年の法改正によって生まれ、今では競馬・競輪・競艇に並ぶ人気である。
WEBサンデー|競女!!!!!!!!

プールに浮かんだ「ランド」と呼ばれるステージを試合場に、選手が手足を使わずに尻や胸を使って相手を落としあい勝負を決める。一見華やかだが、年に数人ほどの死者を出す危険な競技といわれる。
競女!!!!!!!! - Wikipedia: フリー百科事典(2016/10/09 19:46 JSTの最新版)

つまりこのような競技だ。

f:id:honeshabri:20161009225942j:plain:w500f:id:honeshabri:20161009230000j:plain:w500f:id:honeshabri:20161009230109j:plain:w500

『競女!!!!!!!!』1話より

競技の説明はこれで十分であろう。

さて、競女の歴史について解説する前に、ここで一つ問題だ。
競女という競技に向いている体型とはどのような体型だろうか。
その答にこそ、競女のルーツが示されている。


直感的に考えればこのような体型になるだろう。

Venus von Willendorf 01.jpg
By User:MatthiasKabel - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

そう、競女の起源は豊作祈願と子孫繁栄の神事にある。

概要

競女という競技は2003年の法改正によって生まれたものであるが、その原型は日本固有の宗教である神道に基づいた農耕儀礼にある。かつては日本国内各地の水田で見られたが、現在では一部の地域でのみ縮小化された形で行われている。水を入れた田植え前の圃場に舞台が作られ、そこで健康と体格に恵まれた女性によって押し合いが行われる。これは神々に敬意と感謝を示す行為であるとともに、今年の収穫を占う儀式としての側面もあった。

現在行われている競技と化した競女においても神事としての形態は色濃く残されていおり、ギャンブルとなっているのも伝統に即したものであると言える。

歴史

ここでは競女の原型となった農耕儀礼についての歴史を記す。

その起源は記録がほとんど残っていないため定かではないが、もともと耕田儀礼の祭事がトヨウケビメノカミ信仰と結びついて生まれたと言われている。豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀されるこの神は、食物・穀物を司る女神であり、『古事記』にも豊宇気毘売神の名で記載されている。

外宮正宮
By N yotarou - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

また、競女はその形態から相撲との類似点を多く指摘されている。「相撲」という言葉の初出は『日本書紀』であり、そこで「雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、相撲をとらせた」と記されている。この頃から女性による相撲が存在していたことが分かる一方で、競女としての形態、すなわち水上に作られた舞台の上での落としあい、は確立していなかったと思われる。

現代に続く形が確立されたのは平安時代であると言われている。この頃には田楽などと共に各地へ広まり、祭事としての形式がはっきりとしてきた。当時の女性が書いたとされる『栄花物語』には、田植えの風景として歌い躍る情景が記されている。

そして何よりの証拠としてはこの漫画であろう。

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動物の姿で描かれているこれは、明らかに競女の原型であると言える。

以降の歴史については時代によって差異があるものの、基本的な形は変わらずに各地で続けられてきた。しかしながら田楽など他の祭事と同様に、江戸時代にはほぼ忘れ去られた存在となる。また、戦後の芸能史・民俗芸能研究においても、そのある種の卑猥さからか積極的に研究する者が少なく、農民主体の行事であるため記録が乏しいことから、伝統芸能として名が上がることは殆どなかった。今ではいくつかの地域で町おこしに使われる*2くらいである。

神事の形態

ここでは平安時代から室町時代に行われていた神事の形態について説明する。もちろん地域や時代によって異なる点があるため、あくまでも共通する基本的な形式と思っていただきたい。

時期

地域にもよるが概ね5月上旬の田植え前に行われる。競女を行うと舞台の周辺が荒れるため、代掻き前に行うところもあるが、本来は田植え直前にやるものである。

舞台の構成

現代の競女はプールの浮島が舞台となっているのに対し、神事の競女は水田上に作られた木組みの舞台で行われた。伝わっている作り方は以下の通り。

  • 太さ1尺半(約45センチ)の先端を尖らせた木材を2本ずつ用意する
  • それを2尺(約60センチ)の間隔をもたせて互いにしばりつける
  • この2本組の杭を地中に打ち込んで固定する
  • さらにもう1組の杭を6尺離れた位置に平行に打ち込む
  • 2組の間に2尺×6尺の板を橋桁として渡し、留め金で固定する
  • これをもう1組用意して土台とし、横木を渡して床を貼ったら完成

これに飾り付けが行われるのが普通であるが、それこそ多種多様なものであり、一般的な形態というものは存在しない。

参加者

実際に競技を行うのは女性のみであり、各家から代表者1名が選出された。基本的には年頃の娘が選ばれる。これは後述するように、この神事はある種のセックスアピールの場としての機能も果たしていたからである。とはいえ既婚女性が参加することもあり、経験豊かな女性がその実力を買われて参戦することも多々あったという。

女性のみという理由はいくつかある。まずこの神事は先に書いたように、トヨウケビメノカミ信仰が根本にある。最後に残っていた者にトヨウケビメノカミの祝福がされると言われているため、女神と同性である女性が行うのだ。また、もう一つの願いである子孫繁栄についても、宗教において女性の役割であるためである。さらに実務的なことを言えば、そのルール上、男女混合では体格的に不平等であるというのもあるだろう。

田植姿 南秋田・金足.jpg
By 柳田国男、三木茂 - http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-440.html, Public Domain, Link

ルールと神事の意義

ルールそのものは現在の競女とそう対して変わらない。4名から8名の選手が舞台に上がり、乳と尻を駆使して相手を押す。そして最後まで舞台に残っていた者が勝者である。

占い的な要素として、この勝者の家の田んぼが今年最も豊作になるとされる。これは元々、勝者になる人は体格が良く健康的であるため、そのような人は豊かであるに違いない、という発想から来ている。それがいつしか因果が逆転し、勝者の田んぼが豊かになる、となった。そのため去年不作であった家の者をわざと勝たせることもあったと言われている。

また、乳と尻を積極的に使うところから、前述したとおりセックスアピールの場としても機能していた。勝者が未婚であった場合、その健康的な肉体を持つことを示した彼女は、多くの男性に求婚されたという。子孫繁栄の祈願として考えた場合、かなり有効的な神事であったと考えられる。現在の競女選手が人気であるのも、伝統と言えるだろう。

終わりに

このように「競女」という競技は神道と稲作という日本の文化に深く結びついた競技であると言えよう。現実に競女が存在しない我々からしたら、奇妙に思えるのも仕方ないのかもしれない。しかし、現実に存在する競技についても、良く良く考えれば奇妙なものばかりだ。国技である相撲にしたって、ほぼ全裸のデブが抱き合うようにして戦う競技なのだ。普通に思えるかどうかは、ただ実際にあるかどうかという点でのみ決まるのだ。

そう考えてみると『競女!!!!!!!!』という作品は、日本文化を元にもしかしたらあったかもしれない世界を描く、文化のSFと言えるだろう。こういった作品は自分の常識がどのようなものか、再認識させてくれるから面白い。

さて、最後に念のため書いておく。このブログ記事はフィクションである。「競女」という競技が実在しないというのは当然として、上記の「競女の歴史」が『競女!!!!!!!!』という作品の公式設定ではない、という点も含めてだ。これは原作を読んでいない俺が、アニメ1話を見て思いついたものである。間違ってもWikipediaなどに書かないでもらいたい。

競女!!!!!!!!(1) (少年サンデーコミックス)

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